光華の在処 | ナノ
華の在処




爽快な初夏の風が青空を駆け抜けて、淡菖蒲を包む鍔をひらりと浮かせた。
それを優しく戻す不器用な指先は、愛しさを眸に湛えながら微笑むと。


「有難う、カノン」


返す声音と共に見上げて来る笑顔は、今日もとても美しく。それに合わせるように、自然に男も笑みが濃くなった。


女神の手には大きなバスケットが、大切そうに握り締められている。

その華奢な躯に余る不安定さを前に、双子座は何度も自分が持つと言っているのだが。
頑なにそれを拒み続ける、頼りない彼女に寄り添いながら広い歩幅は窮屈になる。


歩くこと、暫く。
豊かな緑に囲まれた森林の中、大きな幹下に辿り着くと沙織の足は止まった。
どうやら目指していた場所は此処で間違い無いらしい。


何も言葉を発さず、それでも目が合えばふわりと返す彼女の柔らかい笑顔を見て。最近更に増して変化を帯びてきたと感じるのは、もう一年以上隠してきた想いに比例する。

美麗であり、優雅だと。それは女神である本質とカノンはずっと思って来た。

けれども、ふと見せる温かな微笑みや艶のある愁い顔も深く胸に刻み込まれるのだ。
その理由は考えるよりも身体の方が、心と直結なだけ嘘偽りが無く。何時も伸ばしそうになる掌、追い掛ける目先、煩い位に踊り鳴る心臓。あらゆる器官が彼女を欲していた。




「お腹、空いてませんか…?」



控え目に聞こえる問いは、心地好くカノンの鼓膜に伝わる。

手伝って欲しいと、女神から声が掛けられて。快く了承したのは丁度昼時前。
しかし、予想に反して手持ち無沙汰となってしまった双子座の頭の中は疑問符が次々に浮かぶ。
最初は遠出でもするのかと思ったが、荷物はたったひとつ。それも決して離そうとしない不自然さに彼の顔色は曇ったのだ。







広げられた敷物の上に丁寧に籠を降ろすと、沙織は静かに蓋を開けて中身を取り出した。

数種類のオープンサンドと色鮮やかな果物が敷き詰められたケーキ。そして極め付けは上質のシャンパン。


漸く、彼は気付く。


今日は5月30日。
他ならぬ自分の誕生日だ。




























「―――こうして、言いたかったんです」

「………?」

「太陽の下で、貴方に」


ずっと、日陰の存在だった双子座の影。それが、自分の運命だと知った時の絶望を。この女神は、癒してくれるのだ。
それもカノンが望むよりもずっと、遥かに越えたものを与えてくれる。今は光溢れる場所でこうして生きているのだから、と。


「誕生日、おめでとうございます…カノン」


今迄何度も見てきた筈なのに、目前の花咲みと優しい言葉は強烈に彼の心を衝き抜け震わせた。


「―――有、難うございます…!」


自身に向けられる笑顔と余りにも嬉しい贈物に、ずっと破裂しそうな鼓動は全身に及んでいる。
掠れた声音は、滲む涙と共に彼の鼻の奥を突く。
小刻みに揺れる指を悟られまいと、カノンは膝の上で握り拳を作りながら耐えて。






















「少ししか時間が無かったから…あまり沢山作れなかったんですけど」

「いえ、これで…十分です」


カノンは決して謙遜しているつもりは無い。しかし、食欲よりも勝るものが男を支配したままの状態ではそれが本音。
落ち着かない指頭は、それでも彼女の期待に応えようと主食を取り一口、二口噛み締めた。
彼にとってはこれ以上無い味に感じただろう、どんなに立派で豪華な料理が相手であっても。


「女神も、どうぞお食べ下さい」

「え、でも…これはカノンの…」

「私だけでは、多いですから」


そう差し出され、沙織は遠慮がちに手を伸ばし栄養たっぷりの野菜達を頬張った。


が。


この女神も緊張していたのだろう、普段なら十全な礼式を熟している筈の花唇は誤りを犯す。
その愛らしい失敗を知ると、どうにも我慢出来ずにカノンは吹き出してしまった。


「カノン…?どうしたの…?」

「女神、料理の方は完璧のようですが…作法の方はまだまだですね」


笑っている双子座を首を傾げてきょとんと見ていた女神は、口許に触れられた指の感触に気付くのが遅れる。
拭ったのは手作りのサンドに惜し気もなく塗られた調味料のマヨネーズ。それを掬い、無意識の動作は流れるように彼は自らの口に運ぶ。


「……ッや、やだ…」


何が恥かしいのか、沙織は頭が混乱してしまって思考が追いつかない。けれども、熱く火照る顔は一気に赤くなり。
不敵な笑みを見せる男の顔を見ることが出来ずに、彼女は咄嗟に横を向いた。


「カノンなんて…知りません!」


怒った表情に幼い仕草が益々火の点いたカノンを静かに、けれど確実に助長させる。
それまでもずっと我慢していたのだ、こうも沙織自身に煽られると彼が創り上げた理性など無駄に等しい。


「―――女神」

「………」

「…申し訳ありませぬ…女神、どうか此方を御向き下さいませ」


先程の意気揚々としたものとは違って、大層塞込んだ声音にはっとする。
そうだ、今日は彼が主役。喜ばせる為に数日前からの計画を自分で壊してしまう訳にはいかないと。
流石に居心地が悪くなって、沙織は緩々とカノンの方へ直った時だった。


「―――ッ」


男性の割に、長い睫毛が女神の柔らかな皮膚の上を掠めたのは確かに一瞬。
しかし、触れた箇所は言葉無くとも直に伝わる部分。唇を奪ったまま、慎重に彼は小さな躰に覆い被さる。


此処は、閉ざされた世界ではない。私有地とはいえ、誰からの視線も容易に浴びる場所。例えば、城戸邸に身を置く青銅の彼等とか。
それを知っていながらカノンは危険な状況へ持ち込み、興じているのだ。


「だ、め…カノン…!」

「誕生日祝いなのでしょう…?」

「そ、それは今食べているものです…っ」

「女神、私は欲張りなのですよ」


押し倒された状態で、可愛らしい抵抗を続ける女神に双子座は。耳朶、頬、額、瞼へと愛情を込めて口付けを落とす。
優しく刺激されるその感覚に、沙織はとうとう堪えられず覚悟を決めて。


「私で、良いんですか…?」


恐々と見上げて来る不安そうな瞳と自信の無い科白を前に、カノンはもう一度ゆっくりと紅唇を味わった。
はっきりと告げる男の応えは少しの迷いも無く。真剣な眼差しは、女神を恋情へと誘う。


「貴女が、欲しいんです」


光が照らす世に示される、強い意志を受け取った沙織は微笑んで。
行き先を探していた両手はそっと、カノンの顔を包み込んだ。幸せで満たされた彼もまた最高の笑みを返す。




(続きは、もっと別の場所で頂いても宜しいですか?)

(そ、そんな事聞かないで下さい…!!)


二人だけで過ごす極上の時間は、運の良いことに誰からも邪魔されず過ぎて行った。
無論、彼の願い通りのままに―――。



2010.05.30



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