優しい嘘、軋む傷跡 | ナノ
優しい、軋む傷跡





抜けるような蒼い空、太陽の光が高く昇っている。暦上では初夏、聖域では最も気温が上昇する季節。

その炎天下の中を、滲む汗をそのままに。青銀の長髪を揺らして、人込みの中を進む。

いくら、女神を守護する聖闘士と言えども。それは日々の生活を過ごす上では、何の利点にもならない。

普通の人間と、ひとつも変わらない。何故なら、崇拝する女神本人がそれを望み、実行しているからだ。





ほんの些細なことでも、人を頼らず全て自身で完結させてしまう。

女神を、その手で育て上げたかったと…渇望して已まない教皇が。その世話を焼きたくて仕方ないと、ぼやいているのはもう日常茶飯事である。

そして、女神沙織の側近である双子座も。一抹の淋しさと、切なさを胸に秘めて毎日を繰り返していた。












額を伝う玉汗を、手の甲で拭いながらカノンは市街を突き抜ける。腕には紙袋を抱えて。

生まれ持った能力に溺れてしまった己は、麗しき女神によって救われた。だからこそ、今はこの生の意味をゆっくり時間を掛けて知りたいと思った。

仍て、彼はこうして此処に在る。地を踏み締め、風を通じて、人と接する。

一人の人間として、生きるとはどういう事なのかと。そして人であることの幸せを、と。慈悲深く向けられる碧色から読み取れて。


(倖せ、は。もう既に知ってしまったと…告げたら貴女はどう思うのか…)


あの優しい御手を、取った瞬間に。ずっと抱えていた自らの想いに気付いてしまった。

もう触れることも叶わないと覚悟していたからこそ、溢れた想いに歯止めは利かなかった。

益々成長を遂げる、痛みも伴うその心を。カノンは抗いもせず、緩やかに持ち続けていた。

(…………?)





大勢の人々が行き交う市場の外れ、ひっそりと佇む雑貨屋の店頭に。帽子の下から艶やかに流れる薄紫を見つけて。

女神と一つでも共通点を見出しては何時も目で追う己、彼女が占める割合の大きさに苦笑してしまうのだが。

しかし流石に、背丈も雰囲気も酷似した女性を目前にして。カノンは視線が釘付けとなった。

自分が聖域を出る時には、女神は神殿に居らした筈だ。確かにその小宇宙も感じていたのだから。

それでも、ふと掠めた馴染の花の馨りに。双子座は確信を持つ。


(どうして…このような所へ?まさか、お一人では!?)


沙織は、日本で暮らした時間が長かった所為なのか自由奔放な気性を持つ。それ故にこのカノンも度々気を揉む事もあるのだが。

荷物をも手放し直ぐ様女神の元へと駆ける刹那、側に寄り添う見知った小宇宙の片端に気付く。














「沙織…暑くはありませんか?」

「大丈夫よ。ふふ、貴方は本当に心配性なのね」


耳に入ってくる、その親密さを窺わせる二人の会話に。カノンは思わず足が止まり、物陰へと身を潜めて。


「あら…この髪飾りとても可愛いわ」


白く細い指先が捉えた、色鮮やかな花々の装飾品。隣の男は奪い去るとそのまま彼女の艶髪へと触れる。


「とても、似合いますよ…。これを戴けますか?」


人の良さそうな女主人へと声を掛けて、流れるような動作は自分と違って紳士的過ぎた。


「ムウ、私そんなつもりじゃ…」

「良いのですよ、沙織。貴女が喜んでくれるのなら」


謙遜の科白にやんわりと返す牡羊座は、聖域で見せることのない笑顔を向けている。

それを受けて女神は、頬を桃色に染めて。全ての男を魅了するかのような微笑みを返しているその様子に、双子座は胸を抉られる感覚に陥った。















傷む胸元を押さえながら、カノンは無意識に足元の砂利を踏みつけた。その僅かな物音に感付いたのは。


「……カノン……」

「え、カノン…!?」


呟いたその声に、大きく反応したのは女神。対照的に落ち着いた…否、冷酷な眼差しを当の本人へ向けているのは牡羊座。間の悪さに、軽く舌打しながらも。知られた以上、姿を現さずにはいられないのも事実。俯き加減で、カノンは静かに二人へと近付いた。















双子座の歩み寄りに、沙織は動揺して。そんな彼女を護るように、男は二人の間に割って入る。睨み合う両者の眸を、女神は男の背に阻まれて見ることが出来ないでいた。


「ご、ごめんなさい……カノン」


ムウの腕を掴みながら、美しい声色が儚く響き。弾かれるように、カノンは沙織の方へ視線を落とす。


(違う、俺は…貴女を悲しませるつもりは…)


怯え涙を湛えるその様相に、又も悲鳴を上げる心を無視し続けた。


「カノン、誘ったのは私です。ですから…沙織を責めないで下さい」

「ムウ…!」


互いを庇うその様子は、嫌でも分かるだろう。……好き合っている同士なのだと。











「…この事は…教皇には内緒にしておきます…。ですから早く聖域へお戻りください」


拳を力一杯握り締めて、カノンは低く言う。女神の潤んだ瞳を直視出来ずに。

「…!有難う、カノン…!」


彼の引き裂かれそうな痛みなど、露知らず。沙織は安堵の色を浮かべて、美しい笑顔を見せた。


(俺には……これ以上の望みを…欲する資格など…)


頭で理解しながらも、カノンは願ってしまう。誰よりも自分に、その総てを向けて欲しいと。

その気持ちのまま、男は女神へと手を伸ばした。しかし、ムウはそれを丁寧に制すると。沙織の肩を抱いて囁く。


「…では、帰りましょうか。飛んでも、構いませんね?」

「ええ、お願い……、ッ!」


不意に乱れた吐息は、牡羊座の長髪に邪魔されて。その全貌は伺えなかったのだが、隙間から覗いたのは恋人である証の行為。

カノンは咄嗟に眼を逸らし、唇を強く噛み締めた。




















その後二人の聖闘士に守護されながら、女神は誰にも知られる事なく聖域へと辿り着いた。

沙織はその足で神殿に。最後まで繋がれていたのは双子座ではなく、牡羊座の掌であり。解放を促したのは嫉妬に濡れた男。

女神の姿が完全に消えた瞬間、攻撃的な眼光で睨み上げるカノン、対してムウは全く動じない。


「…説明して貰おうか」

「何を、です?貴方が見た通りですよ」


態度も口調も、何もかも余裕に満ちていて。それがカノンの癪に障ったのだろう、ムウは勢いよく胸倉を掴まれた。


「貴様…!女神を穢すことは許さんぞ…!!」

「―――何の間違いですか。私は彼女を愛しているのですよ?」


一点の曇りも無い、本気の両眸に双子座の彼は益々熱り立つ。堂々と告げられる嫉みをも含んで。
内側から込み上げる、熱さに支配されていく。情愛の焔は激しさを増して。


「…許されると思っているのか。聖闘士として重罪だ」

「勿論、云われる迄もありませんよ。しかし、私は沙織を諦めるつもりはありません」

「……何、だと…?」

「処分は何でも御受けしますよ…貴方に出来るのならば…ね」












胸を燻っていた思慕の情は無意識の内に表れていた、沙織へ向ける熱い視線と共に。洞察力に長けているムウはそれを見逃さず。

愛する者を喪失してしまえば、女神が悲しむのは当然。そして己へと注がれる今の温かな小宇宙は、真逆の物に色を変えるだろう。

それを、この男は知っている。その上で先程の言葉を吐いたのだ。








――――勝てる、訳がない。








具えた能力も他者に比して群を抜いている。しかも沙織が女神と発覚する以前から彼女にずっと手を差し伸べ、そして見護っていた。

それに引き換え…自分は聖闘士で在りながら、裏切った。挙句の果てには、兄弟揃って命まで奪おうとした贖罪の過去。



そして、何より。



女神が、ムウを愛している事実が…致命的だ。




場に立ち尽くすカノンを、ムウは悉く無視し立ち去る。同じ聖闘士とすら認知されていない、その挙止。

様々な思念が交差して、飛び散った火粉の破片。


…しかし。


喩え、愛されなくとも。
どれだけ、苦しい思いに押し潰されそうになったとしても。

自ら…女神の傍を離れる事は無いだろう、と。カノンはひとり呟いた。



2009.07.14




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