蜂蜜と木苺 | ナノ
蜂蜜と木苺
(こんなに散らかして…)
酒の空き瓶に煙草の吸い殻、それから食べ散らかした食器。
例え黄金聖闘士でも、心技体が常に完璧ではない。無論、戦いの際はそれを期待されるのであろうが。
こうしてふと見せる彼等の日常が女神沙織を安心へと導き、遥かに大人な筈の彼の幼稚さは笑みを作らせる。
これはきっと、愛情の証。カノンの持つ短所すら愛しく思えるのは、余る程の愛を受けているからだ。
同じ守護星を持つ兄が不在の時を図って、弟は普段の鬱憤を晴らす為か数名の者と飲み明かす事がある。
気晴らしは結構、街に娯楽を求めるより遥かに良い。それにカノンは包み隠さず沙織に話してくれるから。
(昨夜はデスマスクに、ミロとカミュ…それからシュラに、アイオリアだったかしら)
カノンを他の聖闘士が宴を張る位に、仲間として受け入れてくれた事が嬉しくて。
本音を言えば沙織もその場に参加したかったのだが、それだけは絶対に駄目だと当のカノンに押し切られてしまい。
その必死な形相に驚いて、女神はただ双子座に何度も頷いたのだった。
(でも…やっぱり来たかったです…)
相思相愛の間ならそれは極自然な感情、男同士の仲を邪魔するつもりは無いが。
聖闘士と女神との障害を越えた恋情が、色褪せるにはまだ早過ぎる。
つまりは、一緒に居たいのだ…時間が許す限り。
(こんな事ぐらいで落ち込むなんて…)
しかし、沙織はそんな自分を初めて好きになれた気がしていた。彼の言葉や行動に一喜一憂する女神なんて、きっと誰も信じてくれないだろうけど。
そして過ぎ去りし時に拘っているのは、どう頑張っても無駄にしかならない。
女神は小さく息を吐くと、周囲をもう一度見回した。
(カノンが起きる前に終わらせなくちゃ…!)
まず家事の手始めに、沙織は宴の跡を消し去る所から。
そして次は散らかっている彼の衣服を全て洗濯し、目が覚める頃には二人分の遅い朝食を用意する成算。
女神は計画通りに双子座を覚醒させる事無く黙々と作業を進め、二段階目の仕事に着手する直前に。
乱雑に脱ぎ捨てられた白いシャツを拾った瞬間、ふわりと鼻を擽ったものは。
(……?これ、香水の匂い…?)
甘ったるい、何種類もの花を調合したその香りが女性用なのは歴然だ。しかも、それは沙織の身に覚えがない大人の芳香。
(う、そ…です、だって…そんな…!)
これだけ残り香を判別出来る程、染み込んでいる理由は一つだけ。肌が触れ合う位の密着、しかも相当長い時間を掛けるしかない。
(違う、カノンは…私を…愛してるって…)
想いのすれ違いを何度となく繰り返して。
沢山、辛い思いを経験して。やっと、やっと互いの気持ちが通じたのだ。
それが、そんな簡単に壊れる訳がない。
彼から貰った言葉、甘くて優しい口付け、過ごした小夜。何もかも鮮明に記憶している。
でも。
……それさえも、偽りだったら?
ドクン、ドクンと煩い心臓に耐え切れず、彼女はその場に崩れ落ちる。必死に幸福の欠片を拾い集めても、押し寄せる不安に全て消されてしまいそう。
「っ、く」
止まらない嗚咽が、固く塞いだ唇から零れてしまった。流れる暗涙は激しくなる一方、掌で覆っても意味が無くて。
膝元のシャツが、雨に晒されたように濡れていく。このままではいけないと頭の何処かで解っていても、上手く感情を制御出来ない。
「どうしました…?女神」
(――――っ)
奥のベッドから気怠い声が飛んでくる、どうやらカノンが起きてしまったらしい。
それでも沙織は今の醜態を明かす勇気など無く、咄嗟に涙を拭いて逃れる体勢に入ろうとしたのだが。
「待った」
女神が立ち上がったと同時に、後ろから彼の片腕が彼女の胸元へ伸び。
未だに治まらない震えは、背中から躯を包まれて漸く落ち着き現状に気付く。
しかしどうしても、振り向けない。女神の視線は上向く事なくじっと足元の白色に向かったまま。
「どうして、逃げるんだ…?」
低く、熱い呼吸が沙織の耳を刺激して。大好きな声なのに、心が完全に麻痺している彼女は無言を貫く。
カノンは最早、完全に覚醒している。口調が変化したのがその証拠。此処には聖闘士と女神ではない、二人の恋人が存在しているだけの話。
「……沙織、」
酷く静かにカノンはその名を呼ぶ、何の温もりをも感じさせないその音は当人に動揺を与え。
沙織は喪失を怖れ反射的に、顔を上げたのだが男の表情を窺う事は出来なかった。
より深く、抱き締められたから。全身に伝わるカノンの体温に新たな雫が溢れてくる。
「俺は貴女を失ったら、息も出来ない」
泣いている理由の追求より自身の真情を吐露した科白が、彼女の重い口を開かせた。
「それは私も同じよ…」
そう言って、沙織は交差するカノンの両腕にそっと自分の手を乗せる。そしてずっと燻っていた、醜い心中をぽつりと呟いた。
「シャツに…香水の匂いが…」
「シャツ…?」
男は眉を僅かに上げて床に転がる代物を眸に映すと、女を拘束していた鎖を手ずから解き。
それから火種である皺だらけの衣を取るなり考える様子も無く羽織り始めた、その予想外の続く行動に沙織の泪は一瞬で止む。
「―――え…?」
男性用であることには間違い無い、けれども明らかにサイズが合わないのだ。
袖は手首より上が覗いているし、胸のボタンが嵌まらないのは閉める前から明白で。
「誰かの忘れ物だろうな…大体予想はつくが」
聖域に仕える女性は多いが、香水を愛用する者となると殆ど居ないだろう。そうなれば、恐らく下界の者が所有者だ。
そして、街へ頻繁に出入りする黄金聖闘士ともなれば自ずと答えが出る。
「デスマスク…?」
昨晩の有り難い置き土産、女神が行き着いた名前は何て滑稽な真実なのか。
勝手に疑って、悲観して泣きじゃくって。自分の愚かな行動を振り返れば、本当に此処から逃げ出したい気分だ。
「カノン、怒ってる…?」
「そう、見えるか?」
漸う対面したその満面の笑顔が逆に恐さを増長させて、沙織は背筋が急に寒くなる感覚に陥る。
次に起こる衝撃に備えて、ぎゅっと瞳を閉じ身構えるが。訪れたのは合さる額に温かな熱、そして今にも触れそうな彼の長い睫毛。
吐息が近い、互いの双眸に留るのは吸い込まれそうな碧色だけ。
「怒ってはいない……ただ、」
「え…?」
聞き直したと同時に、沙織の体躯がふわりと空に舞う。悠々と彼女を支配し、抱える半身は逞しくて何の問題もない。
「まだまだ足りないと思ってな…色々と」
愛情表現という言葉で隠された、愛し愛される者同士で営む行為。それを幾度も経験しているから直感で解る、カノンが何を望んでいるか。
だからと言って、そう易々と甘んじる訳には行かない。もう外は陽が昇って数刻も過ぎているのだ、そんな時間に秘事なんて。
「も、もう昼になるわ…!!また寝るなんて嫌ですっ!」
この期に及んでの精一杯の抵抗、ある意味尊敬にすら値するがこれでは火に油を注ぐようなものだ。
しかし、カノンはあっさりとその拒否の意を了承して別の手段を提示する。
「それなら二人で昼食でも作るか?」
意外な提案に、沙織は焦りから安堵へと素直に表情に表れる。しかし次の瞬間、ある種の絶望へと突き落とされた。
「―――但し、食事の前には沐浴。それが俺の習慣なんだ」
「……え、…?」
彼女は目を丸くして問うが。結局方法は違えても辿り着く結果は変わらないのだ、彼の剛直さもよく知っている。
それに沙織には二度目の“NO”は許されない、今現在の主導権はカノンが握っているのだから。
「ま…ちょっと待って…っ」
「もう決めた事だ、異議は認めない」
にっこり。
淡い期待を完璧な笑みに打ち砕かれて、広い胸の中で深い溜息を吐いた。
しかし、本当に嫌ならもっと激しく反抗したに違いない。それを十分に理解している上での彼の強引。
「昼食は…シリアルと、スクランブルエッグで良いかしら?」
完全な手抜き料理。しかし嬉しそうに微笑む彼女と彼は本当に幸せそうで、纏う空気ですら胸焼け寸前の甘さ。
「それにバニラアイスとラズベリージャムも、だろう?」
カノンの胸中は、歓喜で満ち足りていた。これからの時間は元より、真因は先程の沙織が齎した涙にある。
(あんな馬鹿げた感情は、俺だけだと思っていた)
昨夜の願いを断ったのは、他の男の前に甘美なその姿を一目たりとも曝したくなかったからだ。
愛情に伴って生まれる嫉妬、欲気、独占欲。どれも清廉潔白とは言い難いものばかり。
そんな人間らしい情を、しかもあの彼女が自分に抱くとは思ってもいなかったのだ。
自らの手で、一人の女性を色鮮やかに花咲かせる。それがこの地上を司る女神とは、何と痴がましい誠なのだろう。
「愛してる、沙織」
「私も、愛してるわ…カノン」
愛に包まれた言葉と抱擁が、二人の絆を一際に強めていく。男女の間はゆっくりと時間を掛けるものだと、人々は口を揃えて言うけれど。
そんな一般論など、検証するに値しない。何故なら前例の無い禁忌の愛、それを自分達で探し実行するのみ。
聖闘士と女神の恋物語は未だ、始まったばかりなのだから。
2011.03.27