愛は罰より重く。 | ナノ
愛はより重く。





「…女神…?」

女神の日本での護衛任務を就いていた水瓶座が、執務交代の為ホテルの長い廊下を渡っている最中。眼界に入ってきた藤の花に目を留めた。

中庭にて微かに漂う雰囲気は。何時もの温かく穏やかなものとは違い、不安定で物悲しい。


(何が…あったのだ…?)


周りを囲む空気には異状が無い様子に、そこまでの緊急事態ではないように感じる。

それでも、カミュは駆け出していた。小さく震える女性の、嗚咽を耳に捕らえた瞬間から。



「――――ッ」



声を掛けようと、背後に回った男の時を止めたのは。初めて出逢う儚く美しい泣き顔。


「だ、れ……?」


流す紅涙と薄暗い景色に、気配だけでは姿がはっきりと分からないのであろう。微かに気落ちしながらも彼は応える。


「…水瓶座の、カミュでございます…」

「…カミュ…?」

















世界有数の資産家が集まる夜会に出席することとなった沙織を、教皇により警衛の命を受けたのは水瓶座と双子座。

狭い場で二人揃って女神の傍に仕えるのは、流石に困難であろうと。交互に任務の遂行をと、決めたのは記憶に新しい。

しかし、それならば。

何故、沙織は独りでこのような人影の無い場所へと。しかも態々小宇宙を消して…?護る、もう一人の聖闘士は何処で何をしているのか。

カミュの頭には次から次へと疑問符が浮かび、考えれば考える程その矛先へと不信感が募って行く。


「女神、カノンは…どうしたのですか?」


その名を口に出した瞬間、女神の表情が強張って。そのまま顔を伏せてしまう。


「女神…?」


普通ではない様子に、カミュはその弱々しい肩に手を添える。すると、彼女は緩やかに首を振った。















逸れてしまった、双子座を必死で探したその時に。女神の視界に飛び込んだものは。

カノンと、見知らぬ女性の口付け。

その瞬間に、湧き上がった胸の痛みに。耐えられなくて、悟られたくなくて。咄嗟に自分の存在を消した。
















「私、変なんです…。こんな気持ち、知らない…!」


胸内を暴露してまるで子供のように泣きじゃくる女神を、そっと抱き締める。頭で考えず、本能のみで動いたこの体に自身が驚いて。


「カミュ……?」


…可愛い女神。貴女の御心はとても解り易い、自分ではお気付きにならないのも、また愛しい。恋心は誰へのものかと、言うつもりは毛頭ない。

もしそれが、我に対してのものであれば。歓喜のあまり死ねるだろうに。

カミュもまた、得体の知れない痛みを味わって。





無理矢理、連れ去ることは容易ではない。あの男の実力は、恐らく己以上。

だが、それ以前に。

女神を浚う、勇気すら私には初めから…無いけれど。


「…貴女さえ、この手を取って下さるのなら」

「カ、ミュ…」


戸惑いを見せる沙織に、静かに掌を差し出す。

この御方の意志が、意気地なしの私を後押ししてくれるのならば。繋いだ手を離さず行けるから。


「このまま、二人で…」

















「…何処へ行く気だ、カミュ」


低音が響き渡る。流石に黄金の中でも抽ん出る力を持つ、双子座は。些か時間を無駄にしたが、その歩みは確実に女神を捉えていた。

鋭い眼力。正面から敵対した事は無かったが…これは殺気に近い。少なくとも、同胞に対して向けるものではない。

それでも。

女神を、悲しませた事実を見過ごす訳には行かない。それは聖闘士の感情としては量り切れないカミュの想いだ。



「関係無い、女神を泣かせた貴方には…!」


語気は強く。敵意を剥き出しにした、水瓶座もまた尋常では無かった。


「貴方は…女神を御独りにして、一体何をしていた!?」





「―――――!」


双子座が一瞬怯んだ隙に、女神と水瓶座の指先は絡み合って。


「女神ッ!!」


伸ばした手は空を切り。そのまま二人は宙高く舞い上がる、少しばかりの凍気を場に残し。

直ぐにでも、追い駆けたかった。しかし、瞬間躊躇してしまったのは。罪悪感と、悲しみで淀んだ沙織の眼差し。


(まさかあの場に…女神が居らっしゃったのか…!?)















後悔も後の祭り。自分の犯した過ちは、もう消すことは出来ない。誤解だと弁解して…喩え女神が赦してくれたとしても。


(傷付けた事実は…変わらない)


女神を捜していた最中に、起きてしまった出来事。半肩に突き当たった泥酔する婦人を、介抱しようとしたのがそもそもの間違いだった。

有ろう事か、その女性は勘違いしており…首元に絡んできた鼻を付く香水に、気付いた時は既に遅かった。



纏わり付く腕を乱暴に離して、酷い嫌悪感から口許に付着した苦々しい紅色を即刻拭い取り。

見失った焦りから、女神の残る小宇宙を辿ってみれば。先程の光景と対峙してしまった。


(女神の御身は…無事だろうが、)


心臓の内側から、ズキリと広がる鈍痛。原因は慮ることすら必要ない、厭と云う程解っている。


















(…強行突破…過ぎただろうか)


女神の事となると冷静では居られなくなる自分を、恰も別人のように客観的に感じる。

腕の中で大人しくなった沙織を伺う。その強引さを咎められはしないか、それとも呆れ返っているかと。

しかし、彼の想像を裏切る表情を浮かべて…女神は柔らかく微笑んでいた。



「女神…?」

「ありがとう、カミュ」



流した悲涙はもう消えて、それでも赤く腫れた瞼は痛々しく映る。

都会から離れた山嶺。その身を隠す事が念頭にあった男が行き着いた先。二人を照らすのは人工のものではない、遥か古の褪せない輝き。



「綺麗…」


夜空を仰いで、恍然と酔いしれる。聖域とはまた違う、星々の美しさに。


「すみません、女神。あのような無礼な…」


語尾を濁らせて、詫びの気持ちを伝えるが。それでも尚、一言も責めずに沙織は優しい微笑みを崩そうとはしなかった。


「あの場に居たら…私酷い事言いそうでした。だから、良かったの」


辛い気持ちを笑顔の下に、一途に秘する。女神では無く、ここに居るのは一人の…愛しい者。
















引き寄せる、繊細なその躰を。注意深く自らの懐へと収めた。

そして、同様の痛みを以て…その罪の重さを感じろ、と。間近に迫った、存知する小宇宙を感じながらカミュは思った。


「女神、私は貴女を…慕っております」

「え、何…?聞こえな…」


小声で囁いた男の言葉を聞き返す唇に、両腕に抱かれた格好で落とされた突然の口付け。沙織は翻弄されてしまって、身を任せるしか出来ない。

熱くて、柔らかくて、それでいて激しい。普段の彼とは真逆の、想像も出来ない程に甘く、蕩けそうな。


「ん…っ」


艶のある声に反応して背中を抱く手房にも力が増していき、その行為は深くなっていく。



















実際は僅かの時間だったのだろう。女神を懐いた状態の彼の目の前には、カノンが鎮座していた。


「貴様…覚悟は出来ているのだろうな…?」


眸の奥には、自分と同じ強烈な炎が揺らめいている。女神を想う愛情、悋気、そして我に対する憎悪。

それを感じる程、冴えて行く頭。カミュは対照的に自若として言葉を連ねていく。


「…貴方と同じことをしたまで。責められる理由等無い筈」


女神は、じっと。水瓶座の胸の中に委ねたままだ。時折、きゅっと男の服を握る力が増すけれど。それでも一切双子座を見ようとはしなかった。


(やはり…見られていたのか)


そんな沙織の様相に、冷静を保っているものの。カノンは烈しい胸の痛みにひたすら耐えていた。











「女神に対する所行…重罪だぞ」


強靭な眼光は、益々その力を増大していく。地の唸る如く轟く声は、如何なる者も恐怖に陥れる。しかし…



「……カミュは、私を救ってくれたの」

「女、神……!?」


凛と澄んだ声音は、一触即発の男達を一瞬で停止させ。


そして。触れ合う二人の様相に、カノンの体を畏怖の念が貫いた。罪業の大きさを、この時初めて知ったのだ。


「カノン…今日の事は、一切口外はなりません…」

「―――――!!し、しかしッ」

「これは、絶対です…いいですね」


沙織の瞳は、残酷な程優しかった。それは、拒絶の意味を表していると…これ以上無い明確な意志。

取り戻せない、あの日々を。自分だけに向けてくれていた、あの愛らしい笑顔を…。


(もう、俺には…触れる事も許されないのか…?)








「帰りましょう…流石にこれ以上迷惑を掛けられませんもの…」



失意の中の双子座を擦り抜けて。美しい細腕は水瓶座の目前へと伸ばされる。

カミュが、最も欲していたその手を。迷うことなく掴み取る、固く決して離さずに。


(心臓が引き裂かれそうだ…これが…己の罪の重さ…。女神の痛み…)


絶望の世界に飲まれそうになっているカノンには、見えなかった。

カミュの身体に寄り添う沙織が僅かに震えて、いるのを。







2009.06.20



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