刻の砂。 | ナノ
刻の砂。
「アイオロス……ッ!!」
あんなに輝いて眩しい笑顔を、私は見たことは無かった。
そう、元々向けられる筈の無い感情を期待してしまったのは愚かな私の過ち。
もっと早く、伝えておけば良かった。
もっと早く、掴まえておけば良かったのだ。
『サガ、私……本当は貴方を』
女神の秘した想いを、素直に受け入れることが出来なかった。抱いていたものは同じだった筈なのに、どうしても過去の罪を拭えなくて。
だから、死ぬ程に欲したその手を。私は取りもせず目を逸らしたのだ。
『その先は…聞けません…、女神』
それが、この罰だと。
石段を駆け下りて来る麗しいその姿を見逃す訳も無く。柱から垣間見えた二人を、男は驚愕の表情で眺めていた。
「女神、そんなに慌てなくとも私は逃げませんよ」
「分かってます…!でも早く逢いたかったんですもの」
ふうわりと舞った沙織を逞しい腕と優しい笑顔で抱きとめているのは、射手座のアイオロスだった。
白い羽衣がくるりと踊り、太陽も惜しみなく注がれる其処は誰も踏み入れてはいけない楽園のようで。
闇を纏う己には眩し過ぎた。
…それ以前に、抱き合う二人を直視出来なかったというのが正しいのかもしれないが。
サガはそのまま、物音一つ立てずにその場を離れて。今し方遭遇した強烈な光景を、頭の隅に追いやることに専念した。
後悔すれば、道は開かれるのか?
それならば幾らでも、命尽きるまで懺悔してみせる。
「…女神…神殿を抜け出すとは余り感心しませんが」
「―――――っ」
嫉妬に塗れた双子座は、怒りの矛先を愛しい者へと向ける。教皇宮にある執務室にて、訪れた好機に女神へ問い詰めた。
対峙した沙織は大きな瞳を見開いて、その審問を受け止めた。
「何の、ことでしょう……」
知らぬふりをするのは、保身の為ではない。禁忌を犯した射手座を思ってのことだろう。
その慈悲が、更に目の前の男を追い詰めることを彼女はまだ解っていなくて。
「…女神、」
全てを、見透かされている眼。当然だ、この教皇補佐である彼を欺くことなんて。
無駄だと知っていても、尚護りたい気持ちはどうしようもなく。
だから、嘘を付いた。
でも。
「私から、言わせるのですか?」
嫌な汗が背中を伝う。双眸は冷たく、少しも容赦の無いもの。普段の彼と真逆の顔付きに、沙織は正直に謝罪する方法しか残されていない。
「ごめんなさい…でも。お願いです、サガ…内緒にして」
身が千切れそうとは、正にこの事だ。どんな戦いの上でも経験したことが無い痛み。
見えない傷から血が滴り落ちる感覚。何も考えられない無の骨頂、この世は白黒にすら思えてくる。
「……仕事を、片付けましょう」
悲しみを帯びた深碧から逃れて、サガは書類の束に視線を外した。それを暗黙の了承と受けた女神は、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「有難う…!サガ」
最初から勝ち目など無かった。
ただ、有りもしない夢を見ていたかっただけ。
聖闘士の壁を自身は一生超えられない。痛い位理解しているというのに。
(未だに、私は諦められないでいる)
振り向くと、藤色の艶髪が視界に飛び込んで来る。衝動的にその小さな躰を後ろから包み込んで、サガは告げた。
抱き締めた瞬間に、やっと気付いた。封じてきた想いの深さを、狂おしい程の愛しさを。
「私では……駄目ですか」
(まだ、間に合うのなら)
予想もしていなかった告白に、沙織は愕きを隠せずに躯を震わせた。
全身を覆う黒い法衣、温かい腕の中に涙が込み上げるけれど。
「あの時と、何ら気持ちは変わっておりませぬ…!私は、貴女を」
とても甘い囁きと懐かしい彼の香りに、流されないように。あの頃の、淡い恋心を決して思い出さぬように。
女神はぎゅっと強く目を瞑る。そしてひとこと、解き放つ呪文を。
「アイオロスが…好きなの…」
知っていた。サガが過去の大罪に縛られて、身動きが出来ないことも。幾ら赦しても、それは一生捕らえて放さない。
強さと脆さを持つそんな彼だから、沙織は惹かれた。
(でも、それでも…私は愛して欲しかった)
毎晩、自分の涕に溺れそうになるのを。掬ってくれたのは、又も命を救ってくれた英雄と呼ばれる彼だった。
理由も何も聞かずに、只管癒してくれて。不器用だったけれど、とても充実した時間を過ごせて。
――――そして何より、一人の人間として愛してくれたから。
満たされた心を、無くしたくない……。
「サガ……有難う、こんな私を愛してくれて」
力なく崩れた両腕から、ゆっくりと離れ女神は部屋を後にする。
紺色の長髪に隠されて、双子座の顔は窺えなかったけれど。きっと、互いに同様の感情に支配されているのだろう。
(でも、それでも…私は貴女を愛している)
……二人分の透明な雫は、秘め事となって。この先もずっと光の射さない場所で存在するに違いない。
2010.01.11