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八回の表、田島と三橋のバッテリーでもなかなかのピッチングが見られるようになってきた。一人目、二人目の打者を難なく打ち取り、いい調子だ。
そんな時、妙なタイミングで相手方からタイムの声がかかった。
「ランナーもいないのに…何言ってるんでしょうか」
「わからないけど、何か策がありそうね」
ベンチで名前と監督が首を捻る。だがその後も特に目立ったプレーはなく、すぐに八回の裏へとなった。が、
「花井、打てよ!」
「花井君、う、打てる、よ!」
三橋と田島がそう言って花井を送り出した横で、一人名前は難しい顔をしていた。周りのみんなはそれぞれのことでいっぱいいっぱいで彼女の表情に気づく人はいない。
────美丞の人達が出してたあれは…多分サイン。一体何のサインなのかしら…
名前が気になっていたことは、相手方のサインのことだった。三橋がボールを投げる前に出されるサイン。あれが一体何を示しているのかわからない限り、まだみんなにも監督にも言うわけにはいかない。
そうこうしているうちに、打者が三橋まで回っていた。次は泉なので、ここではどうしてもアウトになるわけにはいかない。三橋もそれは強く感じているようで、最後の物凄く際どいボールを見事見極め、フォアボールで満塁にまで持って行くことに成功した。このチャンスは絶対に逃したくない。自然と力が入る状況に皆が息をのんだ。
一球目は変化球。ストレートが来ると践んでいた泉は派手に空振りした。二球目も同じ変化球で空振り。だがさすがに三球とも同じ球はないと監督は考え、ストレートを待ったところ、三球目はどんぴしゃでストレート。泉は力強く打ち返し、センター前までボールが転がった。そこで花井がホームへ帰り、五点目が追加される。
そして九回。
さぁ、まだまだこれからだと気合い十分で臨む西浦だが、その想いとは裏腹に一人目からバンバン打たれてしまう。さすがにおかしいと感じ始めた田島。そんな時、名前がようやく先程の気になることについて、大凡の答えがでかかった。
───もしかしてあれは…
名前はとっさに監督のそばまで走った。
「あの…か、監督…っ」
彼女の表情を見て監督も表情を固める。そして田島をベンチまで呼ぶと、早速情報を聞き出す。
「うーっと……球種っていうかコースっていうか、やけにピッタリ振られるっていうか…ちょっと心ん中読まれてるみたいで…」
「…読まれてるとしたらあなたの心じゃなくて私の心だろうね。ベンチは相手から丸見えだしもしかしたらサイン盗まれたのかもしれない」
難しい表情のまま、監督が言う。
「だからさ、そろそろ田島君が組み立ててみない?」
「えっ」
「勿論三橋君と協力してね。いい?嫌な球にはちゃんと首振るように言いなさい」
「はいっ」
「ここ凌げばこっちの流れになるからね!頑張ろう!」
「はいっ!」
元気よく返事をしてマウンドに戻った田島。その後ろでは、妙に心配そうな顔をした阿部が三橋を見つめている。それに気付いた名前は黙って彼を見つめたが、すぐにバレて阿部と視線が合った。しかしお互いに無駄なことは言わず、心配そうな表情にふっ、と控え目に笑顔を作り、小さく名前が口を開いた。
「…信じよう」
この言葉に阿部はゆっくりと頷いた。
その時、
「スリーラン!!二本目!」
一番聞こえて欲しくない言葉がマウンドに響いた。二人も慌てて振り返った。するとそこにはただひっそりと後ろを見て佇んでいる三橋がいる。阿部ががっくりと頭を下げたが、まだ諦めるわけにはいかない。三橋はなんとか持ち直し、そのお陰で後ろを守っているみんなもうまく立て直したようだ。なんと最後の打者は一回もバットを振らせることなく終わらせた。みんなはなかなか良い雰囲気でベンチへと帰ってきた。
「あ、隆也そろそろ外さないと」
みんながガヤガヤと戻って来た時、名前は重要なことを思い出し、阿部の元へ駆け寄った。
「もうピリピリしてない?」
「あーまだ感覚あっけど一回外すか。ちょっと温度高かったかもな」
「この気温だからね。あ、自分でやる?」
「ああ、これぐらいはやらねーと」
そう言って自分の膝に巻かれた物を外す阿部。その時、美丞のピッチャーの交代を告げるアナウンスが流れた。これは西浦にとってラッキーなこと。全員で攻める気持ちで、遂に、九回の裏を迎えた。
最初の打者は巣山。
仲間の熱い応援に応えるように、巣山は一発目からバットに当て、ボールはセンター前に転がりなかなかのバッティングだった。そして続く田島。前の打席と比べて随分スッキリした表情をしている。
一球目はボール。そこでは目だけで見送るという余裕を見せてくれた。そして次にきたスライダーを、田島は三塁線まで運んだ。
「長打コースだ!巣山いけるぞ!!」
泉の合図でホームに向かって走り出す巣山。美丞は急いでボールを回すが間に合わず、6点目が入った。これで11─6、まだまだ追いつける点差だ。
次は花井。ここでも打っておかないと後がキツい。やる気十分で打席に立った花井だが、残念ながら三球三振。全てストレートだったために余計悔しい。
「まだ力あるぞ!」
「おお!」
すれ違いざまに沖に忠告して、花井はベンチへと下がった。一方沖は、花井がアウトになったためにさらなるプレッシャーを感じていた。何て言っても自分の次は大会初出場の西広なのだ。
───俺が打たなきゃ…
アウトカウントと取られる訳にはいかない。監督も田島と沖にヒットエンドランの指示を出した。
そしてやってきたストレート。田島は投げた瞬間に走り出し、沖も精一杯バットを振った。だが…
「アウト!!」
沖は一塁でアウトになり、ツーアウトというなんとも苦しい状態で、西広の番が回ってきた。みんなは声が枯れるほど、ベンチから西広へ声援を送り続ける。
「西広打てるぞおお!!」
「西広君、頑張れー!!!」
三橋も珍しい位に声を張り上げる。名前もただひたすらに西広の成功を祈っていた。
一球目。
西広は大きくバットを振ったが当たらず、宙を切る。
「西広ー!!」
「打てるぞーっ!」
みんなで必死に声を張り上げる。
そして二球目。
───頼む、当たってくれ…っ
また思い切り振るがバットは宙を切るばかり。後一球。後一球しかない。
「西広君っ!!!」
名前が思わず叫んでしまった瞬間。
三球目のボールがミットに収まる音だけが響いた。
「ゲームセット!」
「したっ!!」
選手たちがマウンドで頭を下げる後ろで、名前達も頭を下げた。
「スタンド行くぞ!」
「おお!」
花井の声かけで阿部を除いたみんなが応援団に向かって頭を下げる。スタンドにいる人々が沢山声をかけてくれる中、真っ先に西広がその場に崩れ落ちた。悔しそうに涙を流す彼を、花井と沖がそっと支える。
そして三橋も、ベンチで待っていた阿部を見た瞬間、顔を歪めて涙を流した。
「………ま、け……たっ……」
そう言って肩を震わせる三橋を、阿部は辛そうに自分の元へ手繰り寄せた───。
夏の全国高校野球選手権埼玉大会
県立西浦高校試合結果
一回戦西浦対桐青、五対四
三回戦西浦対崎玉、八対零
四回戦西浦対港南、六対三
五回戦美丞大狭山対西浦、十一対六
以上の結果を残し、西浦の夏の大会は幕を閉じた。
「あれ、名前ちゃん。病院行かないの?」
みんなと一緒に学校へ戻ろうとしていた名前を、監督が呼び止めた。その声に不思議そうな顔をする名前。
「え、何でですか?」
「や、だって阿部君が……」
そこまで聞いて、名前は納得したように笑った。
「いくらなんでもそこまでしないですよ。そりゃあ心配ですけど、私は西浦のマネージャーですもん」
「ふっ、さすがだね」
彼女のTPOをわきまえたというか、常識のある行動をするところにはいつも一目置いていた。カップルという存在がいながらもここまで野球部が続いているのは、こういう理由もあると思う。
監督はもう一度ふっ、と笑って名前の肩に手を置いた。
「でもね、名前ちゃん。あなたの仕事はマネージャーだけじゃないでしょ?」
「あ、」
そこまで言われてハッとした。そうだ。自分にはマネジメント、スポーツトレーナーとしての仕事もあるのだ。そう考えると病院の先生の話は聞いておかないとマズい。
「うーあー…すみません、では私も一緒に言っていいですか?」
「はい、喜んで」
そうして、名前達は病院へと足を進めた。
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