≫予感1
五回戦を目前にひかえた今日、埼京スポーツが取材に来ると監督からお知らせがあった。だが取材があるからと言って特別メニューを変えるわけでもない。ただチームのみんなが微妙に気持ちが落ち着いていないだけで、それ以外はいつもと何も変わらない日だった。
しばらくすると、グラウンドに監督と女の人と男の人が入ってきた。様子からしてその2人が埼京スポーツだろう。みんなの視線が一気に集中した。
監督と話を熱心に聞く記者の清水。それに興味を示すみんなだが、生憎今からはお昼休憩。グラウンドにずっととどまるわけにもいかないので選手たちはぞろぞろとその場をあとにした。
だが名前はそうはいかなかった。まだマネージャーの仕事が残っているのだ。
「名前、お前飯は?」
すれ違いざまに阿部が口を開いた。
「私今から飲み物作りに行かないと!そのあと千代ちゃんの方にも手伝いに行かなきゃ」
「しのーか?」
「お米だよお米」
「あー…なんか悪いな…色々させちまって」
「気にしないでよ。私はこんなことしかできないんだから。じゃ、私は後からお昼食べるから」
「おーわかった」
普段よりも少し早口で会話を済ませ、2人は一旦別れた。
その日の練習終了後。
いつものように着替えをしていた時に、水谷が急に動きを止めて、阿部の方へ振り向いた。
「ねぇ阿部」
「んだよ」
「俺この前からずっと聞きたいことがあんだよね」
水谷の言う「この前」とは、名前のお見舞いをした日のことだ。その事が何となく理解できた阿部は、無言で水谷の次の言葉を待った。
「何で名字のかーちゃんのこと名前で呼んでんの?」
「あっ、バカ!」
何か深い事情があったらどうするんだと泉が苦い顔をした。名前の家の事情はみんなが聞いている。だから泉をはじめ皆が気を使ったのだろうが、実際その必要はなかった。
「あー…怒るんだよ」
「へ?」
「一回おばさんって呼んだらスゲー怒ってさ。あれから一回も呼んでねぇ」
「な、なるほど…」
水谷は妙に納得した顔で頷いた。何故かわからないがとてもあり得そうな理由だ。
「ま、そういうのよく聞くよな。おばさんって呼ばせない人俺の知り合いにもいるよ」
「俺も」
栄口に続いて巣山も賛同する。
何はともあれ、取り立てて深い事情でもなかったので、みんなはホッと胸を撫で下ろした。
帰り道。2人の間には何故か沈黙が流れていた。だがお互いに黙っているという訳ではなく、どちらかと言えば会話を名前が一方的に途切れさせてしまっているといった具合だ。阿部の方から話しかけても一言二言で会話が終了する。結局阿部も話しかけるのを止め、今に至るというわけだ。
「(昼間は普通だったのに何だってんだ…)」
家まではあと少しなのに、一向に会話がない。こういう微妙な沈黙ははっきり言って居心地が悪いから、何か会話がないかと苦心していたら、気付けばもう彼女の家の前だった。
「あ…もう着いたのか。じゃあな、名前。また明日」
これでやっと解放される、そう思って早々と自転車に跨がった阿部。だけどペダルを漕ぐまでには至らなかった。阿部だって、こんな彼女を放っておけるほど非道な人間ではないのだ。結局阿部は自転車から降りて、名前と正面から向かい合った。
「はぁ…名前。んな顔してたら帰りにくいだろ」
「いや…あ、うん…ごめん…」
「名前、もしかして試合のことか?」
前にも同じような表情を見たことがあった。あの時だって、試合間近になってからだったのだ。今回だってそうなのかもしれない。
阿部の予想は的中した。
「うん…まぁ…ちょっと…ね」
苦笑しながら名前は言葉を濁した。
「お前、こないだの試合の時はなんともなかったのに、どうしたんだ?」
「や、あのね、何か凄く嫌な予感がして…」
「予感?」
「そう。ただの勘だけど、次の試合は十分気をつけた方がいいと思うんだ」
「なんでまた」
「わかんない。私もわかんないの。でも…」
「こら、お前はちょっと心配し過ぎだぞ」
「本当に大丈夫?」
「ああ」
「怪我しない?」
「ああ。三橋とも約束したからな、破るわけにはいかねぇよ」
「んー……」
名前は、一応納得したような素振りを見せたものの、その表情は明らかに納得していなかった。それは阿部にも勿論わかったが、そこにはあえて触れずに先へ進める。
「…にしても助かったわ」
「何が?」
「この前みたいにお前がなってなくてさ」
「…?」
「開会式の前日、スゲー情緒不安定だっただろ?だけど今日はそこまでないから安心したってこと」
「この前は…理由がはっきりわからない不安があったけど、今回ははっきりしてるからかな…まだマシ」
「じゃあ俺帰っていいか?」
「それはだめ」
あまりにもきっぱりと言い切ったので、阿部は笑いしか込み上げてこなかった。
「くっ…はは…っ」
「な、何よ…」
「いや可愛いなと思って」
「もう…とにかく、上がってよ」
「了解です」
家に入ると、百合はもう仕事に出たあとだった。テーブルには「今日は帰りが遅くなるから、戸締まりきちんとしてね」と書かれたメモが置いてあった。それにさっと目を通した名前は、荷物を置いて早速ご飯の準備に取りかかる。阿部も手伝うことには手伝うのだが、主にテーブルの準備であったため、あとは席に座り料理が出るのを待つだけだった。
「そういや名前、今日風呂はどうするんだ?」
向かい合ってご飯を食べながら阿部が尋ねた。
「どうするって?」
「一緒に入るのか?」
「えっ、一緒に入ってくれるの?」
「おお。但し一つ条件がある」
「何?」
「タオルは巻かないこと」
「いいよ」
「この条件がのめるんだったら…えっ、マジで?」
まさかの展開に阿部は箸を落としそうになるくらい動揺した。だってあの名前が、あの名前がいとも簡単に承諾してくれるなんて思いもしなかったのだ。
「俺ちょっと冗談のつもりで言ってみたんだけど…マジで了解するなんて」
「えっ、冗談だったの?じゃあ巻く」
「いやいやいやいや!せっかくだから全裸でいこうぜ」
「……まぁ…いいけど…」
「よし、決定。つーか、これからももう隠さなくていいんじゃねぇか?」
再び食事を開始させた阿部。名前もそれに続くように箸を進めた。
「うーん…なんかね、もういいかなって最近思えてきた」
「だろ?」
「うん」
実際のところ、身体を重ねる度に「お風呂で隠す」という意識が薄れていったのは事実だ。阿部だったらいいかなと、そういう気持ちが名前には確かに芽生えていた。
「それじゃ、さっさと飯食って風呂入るぞ」
「はーい」
「うぃー…さっぱりした」
タオルを首にかけて、名前の部屋に入った阿部は、そのまま彼女のベッドに腰をおろした。その横に名前もポスンと腰をおろす。
「隆也…いつの間にあんなに筋肉ついてたの?私全然気付かなかった」
「さぁ…日に日についてったとは思うぞ」
「かなりの練習量だもんね。そりゃ鍛えられるよ」
お風呂場で見たことを思い出し、名前は自然と頬が緩む。少しずつ少しずつ男らしくなっていく彼の姿に、嬉しさ以外の感情は何も生まれてこなかった。
「本当に綺麗だった…まさにスポーツ選手って感じ」
「そうかぁ?」
「これからの成長が楽しみだね」
「まぁな。じゃあ今日は俺の身体がよく見えるように電気つけてヤるか?」
ニヤリと黒い笑みを浮かべる阿部に、名前は少し頬を染めて首を振った。
「やーよ!恥ずかしくて死にそう」
「俺はそっちがいいのにな」
「隆也が良くても私はやなの」
「わかったわかった…」
ふぅ、と息を吐いて阿部は彼女の頬に指を這わせた。そしてそれを自分の元へ引き寄せながら、一緒にベッドの中に沈んでいった。
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