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「あ、おかえりー」
斎藤さんから帰ってきた二人にたまたま遭遇した名前は、アンダーを替えに行った三橋と入れ替わるように阿部の横に腰を下ろした。
「どうだった?」
「特に異常なし。このままトレーニングも続けろってさ」
「なら良かった。はい、氷」
「おお、サンキュー」
すぐ近くの調理場から取ってきた氷を、阿部は受け取り患部に当てた。いまだに膝は、少し動くだけでも熱をもつ。そのため冷却は必要不可欠であった。
「あ、そうだ。さっきは悪かったな…妙な話聞かせちまって」
妙な話とは勿論先ほどのエロ話のことである。中断役として部屋に入ってきた名前は無論会話を聞いていた。だがこれといって嫌な気持ちにもならなかったので、名前は笑みを零した。
「別に平気よ?高校生男子ならあれくらい普通に話すでしょ?」
「え、あ、うーん…」
「どうかした?」
「いや、何でもねぇ…」
とは言ったものの、阿部は少し不思議に思った。普通、自分の名前がエロ話に使われていたら多少なりとも怒るのではないのか。なのに彼女ときたら全くそういう気配がない。まぁ名前本人について語った訳ではないが…怒る基準はそこなのだろうか。
「そうだ、六回戦のスコア取ったけど見る?」
「えっ、」
考え事をしていた阿部はいきなり目の前に現れたスコア表によって現実に戻された。
「あー見る。貸して」
スコア表を開いた阿部は、しばらく難しい顔で見ていたが、一つため息をつくと、表を床に置いた。
「…さっき三橋がな、榛名を俺のライバルだって言ったんだ」
「ライバル…?」
「俺…榛名をライバルなんて思ったことねーんだけどな…」
「だけど、悔しいんでしょ?」
「あー…うーん……いや、でもその悔しいとはちょっと違うような…」
言葉を濁す阿部は、困ったように名前を見た。
「…もしかして…西浦に来た事を後悔して…」
「んなこたァねー…はず。俺は自分で決めて西浦に来たんだ。それを向こうが勝ってるからって後悔とか…んな小せぇ人間にはなりたくない」
「…でも何か、落ち着かないんだよね」
「まぁな…」
なかなか心がスッキリしない…が、いつまでもズルズルと考えていても仕方がないので、そんなスッキリしない気持ちを誤魔化すように名前の頭を数回撫でて、阿部はもうこの話はやめにした。一方撫でられる方は、若干照れを見せるも、頬を膨らませていた。
「…っ、あのね、私達同い年なんだから…」
「子供扱いすんなってか?」
「…うん」
「…ぷっ、別に子供扱いとかしてねーよ。ただ俺がしたいことやってるだけ」
そう言いながらも尚撫で続ける彼に、名前も怒る気力を無くしてしまった。
「もーいーや。好きなようにしてください」
「かわいー奴」
「…っ」
不意に言われたその言葉に、名前は完全に負けてしまった。
「あ、阿部君!今朝ご飯のメニュー決めていいかな?」
あれからすぐ後に、篠岡が三橋と共にやってきた。三橋のあのキョドり様から先ほどのやり取りを一部聞いていたのかもしれない。だがそんなことにも動じずに阿部は普通に返事を返した。
「おお、いいぜー」
「じゃあちょっと本持ってくるねー!」
たたっと階段を駆け上る篠岡を横目に、阿部は徐に立ち上がった。どうやら背を測るらしい。それに気付いた三橋も慌てて阿部の側まで走る。
「あ、そうだ。篠岡見て思い出したんだけどさ」
ひょこひょこと歩き出しながら阿部が言葉を漏らした。
「今日朝飯作った時に、俺が三橋に包丁は持たせねぇっつったら篠岡が二人で作るんだから三橋にもやらせろって言ってきたんだよ。だから俺は普通のトーンで三橋にはノートの端にも気をつけさせてんだ、別に何もやらせねぇとは言ってねーだろって言ったわけ。そしたら篠岡…すげー泣きそうな顔して…。まぁ結局三橋には包丁握らせたんだがあん時の篠岡にはさすがにビビってさぁ…」
「泣きそう…?」
不思議そうに名前も立ち上がった。
「またいつもみたいに怒鳴っちゃったんじゃない?」
「だから、普通に言ったっつったろ。なぁ、三橋」
「う、うん。その時は…怒ってるようには、見え…なかった…よ?」
いつものようにおどおどはしているが、嘘をついているようには見えなかった。そのため名前は少し考え込んだ。
「三橋君がそう言うなら…確かにちょっと気になる話だね」
「だろー?」
「まぁ…最近何か千代ちゃん調子良くないみたいだから、ちょっと近いうちに聞いてみるよ」
そう言い終わった頃に、篠岡がノートを持ってやってきた。朝飯のことについてはノータッチな名前は、身長を計っている二人と篠岡に「グラウンドに行くね」と告げ、その場を去った。
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