「ほらテツ、これやる」
すれ違いざまに言いながら紙袋を手渡された、家のリビング。
「くれるんですか?」
「おー。開けてみ」
本屋のロゴがプリントされている、こんな所に行くなんて彼にしては珍しい。そう思いながら包みを開けると、当然の如く中身は本だった。
「………どういうことですか?」
「これ食いてーんだよ。作って」
それは料理の本だった、しかもケーキのレシピだけで構成された。一人暮らしを始めて数ヶ月、少しずつ料理を作れるようになったと自慢げに話していたのは誰だったか。自分で作ればいいのに。
「…僕が料理できないの、知ってますよね」
「だってお前何でも聞くっつったじゃん」
「買った方が美味しいし安いですよ」
「今日何の日だよ」
そう言われたら何も言えない。カレンダーを横目で見ながら溜息をつく、8月31日。確かにこの間言ったのだ、何かして欲しいことはありませんかと。『考えとく』、彼はそう答えていて。
でも、彼が一人で本屋に行って料理本のコーナーにいる姿を想像すると、何だかとても可愛く思える。ご自宅用ですか、そう尋ねられるのは恥ずかしかっただろうと思う。
「材料はあるんですか?」
「小麦粉とかならある。生クリームは買っといた」
「製菓用の小麦粉ですか」
「いや、普通の」
「…何のケーキにするんですか?」
「苺のやつがいい」
話せば話すほどいつもと違うように感じて。思わず笑うと、んだよ、と髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜられた。
仕方ない、本を持って台所に向かう。今日は彼が主役の日だから。
「苺はあるんですか?」
「ねぇから代わりにこれ買った」
冷蔵庫から取り出したのは苺のジャム。見つめていると、ほら、と指ですくって突き付けられた。舐めた瞬間広がる甘い味。
「……斬新なケーキになりそうですね」
「あ?何でだよ」
「いえ、こっちの話です」
これで足りっかな、瓶を見つめながら呟く。吹き出しそうになるのを堪えていると、また頭をぐちゃぐちゃに混ぜられた。
「なーテツ、飽きたんだけどー」
「君は何もしてないじゃないですか」
材料を計っているときも作っているときも、遠くのソファでずっと寝そべっていただけの彼を横目で見る。後ろから覆い被さってきて、テツ、と呼ぶ声。耳元で言うのは心臓に悪いからやめてほしい。
「あとどんぐらいで出来んの」
「型に流し込んで焼くだけですけど」
作っている最中に型がないことに気が付いて、あるのはこれだけと出してきたのは平たい耐熱皿。
膨らむだろうか、不安になりながら流し込んでいると、後ろから覗き込む青峰くんが視界に入った。
「…なんで嬉しそうなんですか」
「だってテツの手料理じゃん?」
料理じゃないですけど、言いかけて留まる。これ使ったの初めてだと言いながら、音を立てるオーブンを覗き込んでいる。協力は一切してくれなかったけれど、どうやら彼なりに喜んでいるらしい。
それならもう少し前からやれば良かっただろうか、少しだけ後悔が滲む。でも、そうしたら上手く丸め込まれて、家に来る度に料理を作れと言われるんじゃないか。……もしかしたらもう、そのカウントダウンに入っているのかもしれない。
数十分が経過して生地が焼き上がった、製菓用でない小麦粉で作ったからキメも粗くて膨らみも悪い。それでも、いびつな形のスポンジを取り出した瞬間、耳元でおー、と声がした。後ろから回された腕の力が強まる。
「出来ましたよ」
「クリーム塗んの?」
「まだ熱いので駄目です、少し冷めてから」
テーブルの上に載せる。少し硬そうなスポンジと、その隣に冷蔵庫にしまい忘れたジャムの瓶。水滴が周りに付いて濡れている。
「テツ、こっち」
ソファから呼ぶ声。君はすぐ休みたがりますね、呟きながら歩いていくと嬉しそうに笑う。促されるままに膝の上に座ると、背中に両腕が回された。
「お前柔らけー、ほんと筋肉ねぇよな」
「…すみませんね」
気持ちいい、と何度も呟きながら、ぎゅうぎゅうと力を込められて窒息しそうになる。
文句を言おうと口を開くと、引き寄せられてそのまま唇で塞がれた。言葉を紡ぐどころか呼吸さえままならない。このまま酸欠で死んでしまったらどうしようか、頭の隅でぼんやりと考える。
「いくら抱いても抱き足りねぇなー」
髪を撫でながら、だからさ、と続く声。
「この先もずっとこうさせろよ」
もたれ掛かった胸は硬くて、自分とは全く違う彼の身体。この人は意味を分かって言っているんだろうか。ずっと、だなんて、君が一番似合わないのに。
僕は、その物足りなさがいつか充足感に変わって、やがて飽きて、この腕がほどけてしまうことを恐れているのに。
「来年は一緒にいないかもしれませんよ」
一瞬目を見開いた彼を真正面に見据えて、考える。あとどのくらいこうしていられるだろうか、あと何度おめでとうと言えるだろうか。
今年はこんな風に笑ってケーキを作って、けれど来年は隣にいないかもしれない。別の人のところへ出掛けているかもしれない、
「これが最後かもしれないじゃないですか」
ああ、それでも、
最終的に僕のところに帰ってきてくれるならいいや、なんて思ってしまうあたり、かなり重症なのかもしれない。
そう考えていると頭を引き寄せられて、また抱きしめられた。
「いんだよ、一緒に」
強い声。
なんでこんなにはっきり言い切れるんだろう、根拠のない自信に満ちていられるんだろう。見上げると笑った顔。この表情が好きなんだと実感する。背中越しに見えるテーブルのジャムとスポンジ。
脳裏に映像が浮かぶ。タキシードを着た彼の姿。遠巻きに拍手を送る僕の姿、おめでとうございます、と言う光景を。有り得る未来だ。
思い浮かべて、ぎゅ、と目をつむった瞬間、あー、と小さな溜息が頭上で聞こえた。
「テツってバカだよなぁ」
ぎゅう、また抱きしめられる。音が聞こえそうなくらいにきつく。
「お前さぁ、自分が傷付くって分かっててなんで言うんだよ、そういうこと」
「…想像で傷付いておいた方が、現実になったとき楽ですから」
「ほんとバカだな」
うるさいです、と呟くと、バカ、と返ってくる。うるさいです、バカ、何度も繰り返し。言い合いながらしがみつくと強まる両腕。今度は頭の上で笑う声が聞こえた。
「なに、お前そんなに俺のこと好きなのかよ」
叩こうと振り上げた腕は掴まれて動かない。顔を上げると笑っている。
うるさい、うるさい、…悔しいくらい、
「大好きですよ」
悔しくてたまらなくて、空いた右手の指を噛む。一瞬顔を歪めたのち、掴んでいた僕の右手を持ち上げて、人差し指に歯を当てた。徐々に加わる重圧。痛い。
「……痛いです」
「な」
優越感に満ちたような顔で笑って、手首を掴まれたまま唇が重ねられた。俺も、と小さく聞こえた返答。甘い、甘いはずはないのに、さっき舐めたジャムより甘く感じるキス。
「あの」
「ん?」
キスしたいと確かに思った。でもそれに気付いたわけじゃなくてきっと、キスしたいと同時に思ったんだと思う。ほぼ、確信。
「君が僕を抱くのに飽きても、僕が君とのキスに飽きることはないので」
「キス?」
「キス」
頬を引き寄せられて口付けられた。もう慣れてしまった柔らかい感触。けれど当たり前になったその感情が貴く感じて、嬉しいだなんて。
「俺だって飽きねぇし」
張り合うように言う彼が少し幼く思えて、いつもより愛しく思える。けれど言葉で伝えるつもりはないから、そのまま腕を回して力いっぱい抱き着いた。
彼はきっと知らない、どれだけ僕が彼のことを好きなのか。ケーキを作りながら、ソファでくつろぐ君の姿をずっと見つめていたなんて。今にも抱き着きたいと思っていたなんて、きっと気付いていないんだろう。
「もう一度してください」
「キス?」
「キス」
お前からしろよ、という言葉に無視を決め込んでいると、溜息をつくのが聞こえた。斜めに近付いてくる顔。かすかに触れて、角度を変えながら深いものになって。
キスの感触も、唇が触れ合う瞬間ぞくりとする感覚も、まだまだ薄れそうにない。
「今キスしたら笑ったろ」
「そうですか?」
「自覚ねーだろ」
じゃあもう一度、確かめますか?
尋ねると頬を両手で包まれた。
「一回じゃ分かんねぇよ」
「いいですよ、何度でも」
「当たり前だろ」
噛み付くような返答。なのに口付ける仕草は優しい、頬を撫でる手が少しくすぐったい。
そういえばケーキはとっくに冷めているはずだ。絶え間ない口付けに、頭の片隅に巡らせた考えは溶けかけて小さくなる。
デコレーションはきっとやってくれないだろうから、代わりに生クリームを泡立ててもらおう。
そう考えていると、いつの間にか視界が反転していて。自分を組み敷く彼が見える。
「青峰くん、あの」
「んー?」
「ケーキが、」
そこまで言ったところでまた口が塞がれた。重なったまま隙間から囁く声。
「先、テツ食いてぇ」
にやりと笑いながら。
ああ、デコレーションできるのはもうしばらく後かもしれない。首に腕を絡ませながら、そう心の中で呟いた。
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来年も再来年も一緒にいたいと思う黒子と、それを当たり前と思っている青峰。
青峰お誕生日おめでとう!
20120831