「テツヤ」
「……………はい」
返事はいつもより遅い。二人きりなのに、テツヤなんてこの空間に一人しかいないのに、きょろきょろと辺りを見回してから答えたからだ。
「今テツヤって呼びました?」
「呼んだ」
「初めて下の名前で呼びましたね」
驚きました、手にしていた雑誌を床に置く。呟いた声はいつも通り小さくて、驚いたようには全く見えない。
「突然どうしたんですか」
「なんとなく」
何ですかそれ、小さく笑いながら隣に座る。いや、本当は理由ならある。けど言っていいだろうか、言わない方がいいんだろうか。前にもデリカシーがないとか言われたし。黒子の顔をまじまじと見つめるとやや不思議そうな顔をして、火神くん?と首をかしげた。
「あー、そのさ」
「はい」
言った方がいいんだろうか。言わない方がいいんだろうか。考えるうちに面倒になってくる、言わなくて後悔するんだったら言って後悔した方がいい、と思う。
「さっき冷蔵庫開けたら、…箱あってさ」
「あ」
参りましたね、呟くような声に顔を見やると、いつもと何ら変わらない表情に思えた。まだ。
「でけー箱だったから開けちまって、そしたらケーキだった」
「………見たんですね」
「悪い」
肩に頭を乗せて小さく呻く。そういうの、見て見ぬ振りをするものですよ。声色は少し怒ったような拗ねたような、色んな感情が混ざった響きを持っていて、ここで初めて申し訳ないと思った。肩に乗ったままの頭を撫でる、ふわふわと柔らかい。きっと色んな考えを巡らせた頭。何にも考えていないような顔をして本当は俺のことを考えていてくれた、目の前でうなだれているこの小さい頭。手を添えて上を向かせると少し寂しそうな目をしている。ああ悪かったな、もう一度反省して口付けると、黙って目を閉じて受け入れてくれた。
「…その、嬉しかった」
「………それなら良かったです」
「プレートに名前が書いてあって」
「え?そこですか」
ホールのショートケーキには白いプレートが乗っていた。チョコレートで書かれた言葉、『お誕生日おめでとう 大我くん』。ケーキで祝われることなんてもう何年もなかったから、その文字が妙に新鮮に写った。
「あれお前が書いたの?」
「いえ。プレートに書くメッセージを別の紙に書いて、店員さんに渡して」
「ふーん」
お前よく気付いてもらえたな、口にするのはやめておいた。ここにあるケーキが何よりの証拠だ。恥ずかしかったかと尋ねると、少し間が空いてからいいえと返ってきた。どうやらそれが答えらしい。
「普段呼ばないのに何で大我にしたんだよ」
「なんとなく」
「じゃあ呼べよ」
プレートの文字が記憶に残っていたから、黒子を下の名前で呼んでみた。呼んでみたら今度は呼ばれたいと思った、自分の名前を黒子の声で、イントネーションで。
「なんで呼んでくんねーの」
「……それは、」
近付くとじわじわと後ろに下がっていく。俺が一歩進めば一歩下がる、衣擦れの音が何回か続いたのち、とん、と小さく音がした。黒子の背中が壁にぶつかった音。もう逃げる空間は残っていない。
「なあ、なんで言ってくんねーの」
「…かが、み…」
「大我」
唇が触れそうな程に顔を寄せると、恥ずかしいです、と消え入りそうな顔で呟いた。頬が紅く染まっていくのを視界の端で捉えながら、壁に押し付けた手首に指を絡ませる。
「大我、って」
「………たい、…が」
空いた手で腰を抱き寄せて口付ける。たいが、息継ぎの合間に小さく呟いて、今度は笑った。
「大我」
「…………おう」
「ほら、少し遅くなるでしょう?返事」
「…確かに」
小さく笑うと顔を寄せてくる。顔にかかる髪はさっきと同じでふわふわと柔らかい。こいつの中身と一緒だ、あ、でもこいつ意外と頑固なんだよな。そんなことを思っていると、ふいにシャツの裾が掴まれた。正面を向くと薄く微笑んだ。
「…大我」
「……テツヤ」
「大好きです」
「…………お前、…」
「どうかしました?」
「………嬉しすぎて喋れなかった」
顔が熱いのが分かって手で拭うように擦ると面白がって覗き込んでくる。おかしい、いつの間にか立場が逆転して。二人もつれて床に転がる、フローリングの冷たい感覚。互いの温度がじわりと移動していく。
「大我、」
「あー馬鹿、やめろって」
「嫌ですか?」
「んなわけねー」
「ふふ、大我、…………、ん」
首を引き寄せて口付ける、これで赤くなった頬は見られなくて済む。大我、テツヤ、キスの合間にかすれたやり取り。呼ばれる度により幸せに感じるのは、キスしながら口にしているからか、それともただこいつが言うだけでそう思うのか。頬を寄せて嬉しそうに笑う顔を見ていたら、そんなのどっちでも良くなった。
「お誕生日おめでとうございます」
「…サンキュ」
逢えてよかった、小さく呟いて笑った顔、それを見たら生まれてきてよかったと心底思えた。
「学校で大我って呼んでいいですか」
「…や、駄目」
「どうしてですか?」
「二人の時限定がいい」
「あ、そうですね」
「だろ」
「あ、ケーキ。食べますか?」
「後でいい」
「そうですか」
今はただ抱きしめていたくて、出来る限りの力を込める。苦しいですよ、訴える声はいつもの通り笑っていたから口付ける。また微笑んだ、それもいつも見せるのと同じ。柔らかい。
なのに今日はいつも以上に幸せに思えた、
その原因はとっくに分かっている。
「火神くん?」
「……そっちじゃない方がいい」
「…じゃあ先に呼んでください」
「………テツヤ、」
だから口を開いた。
聞きたくて、
「大我」
その三文字が、もう一度。
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火神お誕生日おめでとう!
誕生日ケーキが、名前で呼び合う特別なきっかけになったら嬉しい。
20120802