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これは正しくないのだと、

そう閉じ込めて、終わらせた。
もう二度と交わることはないと言い聞かせて。



きっかけは些細なことだった。ふとした時に見た笑顔、ただそれだけ。中学二年、練習試合を機に彼を気に入って以来、付きまとうように彼の懐に潜り込んだ。部活の練習中、レギュラーを勝ち取ってからは部活終わりの時間まで。類い稀なる才能と周囲から賞賛される自分たちとは違って、彼に公式として注目が集まることはほとんどない。けれどそんな中でも、いや。そんな中だからこそ努力を惜しまずに、その結果勝ち得たその特性に、彼は自惚れることなく自分たちの隣に立っていた。その姿が好きだった。媚びることもなく自分の力だけで同じラインに立っている、本当はぼろぼろなのにそれを見せない彼の。真っ直ぐに前を見据えているような目線が。

ある時、彼が部活の最中に倒れるのを見た。実力以上に練習のキツさでも有名な帝光バスケ部は、個々人の体力に合わせてメニューを変更することなどなかった。体力がないらしい彼はそれまでにも何度か倒れていて、その度にチームメイトの誰かが休憩中面倒を見ることになった。それがその時たまたま自分に役割が振られたのだった。

「大丈夫っスか」

青白い顔をしている彼にふざけられるはずもなく、力の入らない彼の代わりに飲み物を飲ませてやると、すみません、と小さく呟いた。今日はもう帰ったらどうかと勧めると、意外な答えが返ってきた。嫌です、と。冷や汗をかいて震える見た目とは裏腹に意思の強い、はっきりとした声で。

「僕、バスケが好きなんです」

そう言うと、ふ、と笑った。
その表情に釘付けになって固まってしまっていると、その笑顔は消えて、どうかしましたか、と逆に心配されてしまった。思わず体育館を見渡すと部員たちは練習中で、こちらを見ているのは誰もいないようだった。それはつまり、彼の表情を見たのも自分だけということだった。

誰にも見せたくない、と、思った。


付きまとう度にあからさまに嫌な表情をされて、チームメイトたちに指摘されることもあったけれど、そんな顔を見るのも目的のひとつだった。おそらく彼の嫌がることを進んでするのは自分だけで、だからその表情を向けるのは自分にだけなのだ。空いた休み時間に彼の教室に行けば、また君ですか、と言いながら小さく溜め息をつく。後ろで女子が自分のことを小声で話しているのも聞こえていたけれど、そんなのどうでもよかった。たかだか10分程度の休み時間にまで来てどうするんですか、と呆れ顔の彼に、いつも笑顔で同じ返答をする。黒子っちに逢いたくて。繰り返し口にした言葉はいつしか本当のものになっていた。どんな反応を、どんな言葉を返してくれるのか、ただそれが見たかった。それが単なる欲求ではなく、彼の傍にいるだけで嬉しいのだと気がついたのは、そんなことを繰り返して1ヶ月ほどたった時のことだった。

嫌がる表情を見たいからといって、本当に嫌われたい訳ではない。彼が最も重んじる部活中は節度のある距離感を保ったし、実際その頃には自分もバスケを好きになっていたから、練習に励んで繰り返しメンバーに勝負を持ちかけていた。

ある日のこと。
いつものように昼休み彼の教室に行くと、その日は彼の他に誰もいなかった。聞けば五限目が移動教室なのだという。またですか、と呟く呆れ顔に、俺のこと待ってた?と問い掛けてみると、待ってませんと一言。お決まりのやり取りになりつつあったけれど、それでも出ていけと追い出されることは一度もなかった。それが決め手だったのかもしれない。嫌われてはいない、と。

同じクラスなら良かった、席替えで隣になったらと想像を並べてみる。否定しながらも相槌を打ってくれる彼は優しいと思う。自分の言葉と同時に彼も、脳内で思い描いてくれているのだろうか。そうしたら妙に嬉しくて、席を立って壁のカーテンにくるまってみた。埃の臭い。

「ねえ黒子っち、こっち来て」

「……嫌です」

カーテンから顔を出して手招きすると、一度立ち上がった彼は嫌そうな顔をしてそう答えた。彼はおそらく勘も鋭い。こちらに背を向けて席に戻ろうとするから、悲鳴を上げてみることにした。カーテンにボタンが引っ掛かって取れないとそれらしく騒ぎ立ててみると、仕方ないと言うように呆れながらこちらに近付いてきた。左の袖口という説明に、カーテンをかき分けて所在を探し始める。身体が寄せられた瞬間、衝動で身体が動いた。

手首を掴んで、口付ける。
コンマ数秒。突然のことに動揺した彼の口からくぐもった声が聞こえて、掴んだ彼の手首から脈が伝わってきた。…速い。唇を離すと分かりやすいくらいに彼の頬が赤く染まっていて、目が潤んで、それは、おそらく誰も見たことのない表情だった。

「…したくなっちゃった」

誰も見たことのない、もちろんそれは自分も同じで。何が起こったのか分からないとでも言いたげな混乱した表情の彼に、じゃあまた部活で、と言い残して教室から出ると、途端に緊張が抜けたのか、膝から力が抜けて廊下にしゃがみ込んだ。カーテンにくるまって騒いだ、あれだけが演技だったはずなのに、なんとか格好つけて教室を出た結果がこれだった。唇の感触も、手首から伝わる鼓動も、あの放心状態に陥った真っ赤な顔も、全部。意識せざるを得なかった。

黒子テツヤ。自分は、彼が好きなのだ。




その日は朝から彼に逢うことは叶わなかった。移動教室の多い日でもあり、昼休み彼のもとに向かおうとすれば女子に呼び止められ、対応しているうちに終わってしまった。正直、女の子たちに囲まれるのは悪い気はしなかった。その理由がスタイルや顔なのだとしても、向けられる好意は純粋で可愛らしいと思えた。それでも自分の気持ちを自覚してからは、恋愛対象にはならないと心の中で区切りがついていた。寄ってくる子たちを邪険にするつもりはなかったし、きっとそのスタイルが今後変わることはないだろうと思いつつも、囲まれる様子を見て彼が何の反応も示さないのは気になっていた。いつも大変そうですね、と言うだけだった。

放課後になってやっと逢えると浮き足立っていると、また女子数人に声をかけられた。雑誌で見たという話題からモデル仕事の内容、流れから今度の休みに遊ばないかと誘いを受けて、部活があると丁重にお断りしていた時に視界に彼が入ってきた。こちらへ向かって走ってくる姿は珍しいものだった。

「黒子っち!探してたんスよ、でも見ての通り囲まれちゃって」

話を中断されて後ろから女の子たちが不満の声を漏らす中で、息を切らしている彼にどうしたのと尋ねると、突然腕を掴まれた。

「すみません、お借りします」

え、という間もなく、そのまま引っ張られて走り始める。まるで何かから逃げるかのように校舎の端から端まで走って、すれ違いざまにも何度か女子から声を掛けられて手を振って。身長差から途中何度もつまずきそうになって、コケるって、と訴えてみるも、返事がないまま校舎の裏庭に辿り着いた。裏庭で大きく根を張る樹にもたれ掛かりながら、どうしたの突然、と聞いてみるも息が切れてうまく喋れない。深く息を吸おうと樹に手をついて屈んだ、その瞬間。

「黒、…っ、…………!」

抱き着かれて、唇が重なった。

頭が真っ白になった。君に、と震えるような小さな声が聞こえて、ゆっくりと見上げてこちらを見る顔は赤く染まっていた。

「逢いたかったんです、…君に」

思わず腰を抱いて引き寄せると、すがるように背中に腕が回ってきた。抱きしめてもいいのだと、まるで自問自答のように心の中で何度も繰り返しながら。知らなかった、伝わってくる体温がこんなにも心地いいのだと。朝も、昼休みも逢えなくて、と責めるような声は、顔を押し付けながら話すものだからくぐもって聞こえた。タイミングが合わなくてごめんね、と謝ると、本当です、と返ってきて、逢えないことが怒られる原因になるのだと思うと無性に嬉しかった。

「さっきは女の子たちと話していたのに、すみません」

「ううん。別に」

「…嫌だったので」

そう呟いた声はさっきよりもっと小さくて、もう一回言って、とお願いすると返答の代わりに頭が強く押し付けられた。そんなことしたら痛くなっちゃうっスよ、と押し付けられた頭を撫でると、ふわふわと柔らかい髪が指の隙間に潜り込む。そういえば頭を撫でたことはなかったと思いながらそのまま指先で弄んでいると、子供扱いしないでください、と不満そうに見上げてくる。つい数分隠れていただけだったのに、見えた顔があまりにも愛おしく思えて、そのまま身体を屈めて口付けた。額にキスを落としたかったけれど、また子供扱いと怒られてしまいそうだったから、唇に。

そして、恋人と呼び合える関係になった。


昼休み、一緒に屋上で弁当を食べた。時にキセキの皆で食堂に行くときは、出来る限り彼の隣に座った。部活のあとの帰り道、わざと遠回りして彼を家まで送って帰った。誰もいない道でキスをした。休みの日には二人で出掛けた。ショッピングモールに行ったらキセキの何人かと逢ってしまった。バレたと焦っていたら、気がつかない訳がないだろう、と言われた。驚いていると彼が、隠せると思っていたんですか?と言った。当たり前に言われたその言葉が、なんだかとても嬉しかった。

ある日自分の家に呼んで、そうして、彼を抱いた。繋がっている感覚も、彼の熱を帯びた身体も指も、触れる度に漏れる声も、可愛くて愛しくてたまらなかった。可愛いと言うと彼はいつも恥ずかしそうに目を逸らした。けれどそのあと口付けると必ず首に腕を回してそのキスに応えてくれた。離さないと言われているみたいで嬉しかった。


中学二年の夏、キセキたちの能力が芽生え始めた。部活に出なくなる者、試合を軽んじる者、ワンマンプレーになる者、そしてきっとそれは自分も同じだった。その秋部内で衝突が起こった。主将が絶対君主となって、以前のようなチームプレーが出来なくなった。そして彼はやがて部活に来なくなった。いつから彼は笑わなくなっていただろうと考えた、その時初めて気が付いた。手から何かがすり抜けていたのだと、分かった時にはもう遅かった。なんとなく連絡を取る気にはなれなくて、いつの間にか冬になって、そして卒業を迎えた。

卒業式で彼を探した。
女子生徒に囲まれて身動きが取れない中で、遠くを歩く彼と目が合った。彼の名を呼ぼうとした、手を伸ばした。桜の舞う中で彼は小さく頭を下げると、歩いてどこかへ行ってしまった。
それきり彼には逢わなかった。


四月、推薦で決まった高校に上がった。礼儀を重んじる主将と衝突しかけたけれど、実力からレギュラーになった。エースと呼ばれるのは純粋に嬉しかった。ユニフォームを着るたびに彼の姿が目に浮かんだ。もう同じチームになることはないのだと思うと、やるせない気持ちになった。そもそも彼がバスケを続けているのか分からなかった。

ある日練習試合をすることになった。知った瞬間驚きと喜びが全身を駆け巡った。立候補して校門まで彼を迎えに行って、彼の高校のバスケ部を体育館まで案内した。彼は何事もなかったかのような受け答えをしていた。彼の隣には新しい相棒がいた。なんだか悔しくてその挑戦を受けて、負けた。彼とその相棒に対する想いとは違う悔しさが込み上げた。無意識に涙が出ていた。そんなのは初めてのことだった。このチームでもっとバスケをしたい、このチームで勝ちたいと心から思った。

帰り、彼に逢うことが出来た。昔のチームの話を少しだけした。新しい相棒が彼を探してやって来た。ハプニングで、その三人でストバスをすることになった。彼と一緒にもう一度バスケをすることが出来て本当に嬉しかった。三人で連絡先を交換した。彼のアドレスも電話も変わっていなかった。なんだ、と思った。失った時間をこの先埋めなければと思った。二度と彼を、彼との時間を失うことのないようにと、思った。


思っていたのに。


インターハイ、準々決勝で負けた。憧れとしていた相手だった。先輩たちともっと、もっとバスケがしたかった。練習試合で負けた時に流した涙とは違う悔しさだった。あの時もっと練習を重ねれば、あの時もっとこう動けば、何日経っても後悔は尽きなかった。後悔してからでは遅いのだと思うのと、彼に電話を掛けるのは同時だった。ほぼ無意識だと言っても良かった。コール音がこんなに怖いのは初めてだった。

彼が電話口に出た。もしもし。その一言だけで涙が出そうだった。夜中と呼べる時間だったけれど、外で逢えないかと尋ねた。いいですよと答える声からは感情を読むことが出来なかった。二人でよく待ち合わせた公園に向かった。彼はもう待っていた。座っていたのは、いつも並んで座ったベンチだった。ある時は先に座っている彼を見つけて駆け寄ると、先客である老人に声を掛けられていたらしく、その世間話に付き合っていることがあった。逆に自分が先に座って待っていることもあった。彼に逢うより先に女の子に声を掛けられてしまって、気が付くと遠くから不機嫌そうにしている彼を見つけて、そんな時決まって彼はベンチには近付かなかった。女の子たちをどうにかして帰らせると、不機嫌そうな顔のままやってきて、黙って隣に座るのだった。その理由はある時彼の呟きから発覚した。僕、ここに座るのは君と二人きりの時がいいんです、と。

黒子っち、と声を掛けると後ろを振り向いた。久しぶりですね、と彼は言った。ついこの間インターハイの会場で逢ったでしょ、と言うと、いいえ、と彼は答えた。
二人でここに座るのは久しぶりですね。
言い終わらないうちだったと思う、気が付くと抱きしめていた。ごめんね、ごめんね、と何度も繰り返し。苦しいですよと窮屈そうに呟く彼の声が嬉しかった。彼の温もりが嬉しかった。夜になっても暑い中で待っていた彼の頬は冬のそれよりも温かかった。キスしていい?と尋ねると、答える必要はありますか、と返ってきた。そうだね、ごめんね、と言う代わりに口付けた。重ねた唇は頬よりもっと熱を帯びていた。今日僕の家誰もいないんです、と彼が言った。行っていいの?という質問に、頷いたのが返事だった。汗ばむ指を絡めて、どこか早足で家路に着いた。玄関に入ってすぐ唇を重ねた。扉が閉まるまで待てなかった。割って入った舌先が絡め取られて、彼も同じなのだと思った。身体が熱かった。彼も熱かった。部屋の場所は知っていたから抱き抱えて連れていった。唇から漏れる声はひどく耳障りがよくて、もっと聴きたいと思って首筋に、胸に、キスを落とした。繋がってずっと抱き合って、しがみつくように回された彼の腕が嬉しくて、互いに果てた後も貪るようにキスを交わした。


遊園地に行った。水族館に行った。出掛ける度に記念に何かを買うことにした。まだお互い実家に住んでいるのに、お揃いのマグカップを買ってみたりした。一緒に暮らす時に持っていこうと話した。以前より未来の話が具体的になったようで嬉しかった。お揃いの携帯ストラップを付けて、テンション高く部活に行ってみると先輩が同じものを付けていた。少し落ち込んだものの彼に話したら笑ってくれたから、まあいいかと思った。

ウィンターカップが開幕した。負傷をして、その結果チームを導くことが出来なかった。悔しくて、悔しくて、けれど先輩たちとの日々を忘れることはないと思った。全て糧となってこの先に続くのだと、そうしなければいけないのだと胸に誓った。彼の学校が優勝した。負けて悔しい気持ちと同時に、彼が泣いて笑っているのが自分のことのように嬉しかった。


春になって髪を切った。驚くかどんな反応をするのかとそわそわしていたのに、待ち合わせに来た彼はいつもと同じ挨拶をした。黄瀬くん、こんにちは。遅れてすみませんと申し訳なさそうに謝る彼に、大丈夫っスよ、いい天気っスね、と返してから、あれ?そんなもん?と内心がっかりした。まあいいかと思いつつ、どこ行く?と言いながら歩き始めると、隣に並ぶ彼があの、と言った。黄瀬くん、その髪型似合いますね。気付いてくれた、似合っていると言ってくれた、付き合いたてのように些細なことが嬉しかった。すみません、なかなか言えなくて、と目線を合わせずに彼は言うと、実は遠くからすぐに気がついたのですが別人みたいに思えてなかなか声を掛けられなくて、と一気に話し出した。そして息を吸うとこちらを向いて、素敵ですよ、と言って微笑んだ。街中だから今ここで抱きしめられないのがもどかしかった。

機会があってキセキが揃って試合をすることになった。互いに成長していたし、もうすでに和解していたから、練習時間を含めかけがえのない思い出になった。可能ならこの先、またいつかこの七人で揃いたいと思った。全員で撮った記念写真を焼き増ししてもらって家に飾った。それを話すと、彼も同じだと言って嬉しそうに笑った。

高校終わりにバスケのプロチームから誘いを受けた。けれどその条件は卒業と同時に単身渡米をすることだった。即決する者、断る者、自分は待ってほしいと伸ばし続けた。モデルの仕事をやりつつ大学でバスケを続けた。成人式はキセキの皆で集まった。中学卒業の頃からは想像がつかなかった未来だった。酔っ払って絡んだり笑ったり、騒ぎは朝まで続いた。彼は酒に強いのか弱いのか、顔に出さずに飲み続けていたかと思えば突然こてんと横になり眠った。自分に寄りかかってきたのが嬉しくて微笑んでいると、気持ちが悪いとキセキたちに罵倒された。


大学生活が折り返しになった頃、二人で一緒に暮らし始めた。それは自然のなりゆきのように思えた。料理に縁のない二人で百貨店に行ってそれなりに調理道具を揃えた。ある日ビーフシチューを作って、蓋をするのを忘れたまま煮込んでしまった。気が付いた時には水分が蒸発して半分ほどの量になっていて、帰ってきた彼に謝ると、二人で食べるにはちょうどいいですよと笑ってくれた。ある日彼が出掛けたかと思うとスーパーの袋を下げて帰って来て、肉じゃがを作ってくれた。初めて作ってくれたそれを食べて美味しいと喜んでいると、アメリカにいるかつての相棒に電話で教わったのだと言った。そういえば昨日の夜電話を掛けていたと思い出すと、同時に嫉妬している自分に気が付いた。表情を見て察したのか彼が困ったように笑って言った。君に美味しいと思ってほしいから教わったんですよ。首を傾げながら、君の胃袋は掴めたでしょうか、と尋ねる彼を抱きしめて、胃袋どころかあらゆるものを掴まれてるんスけど、と呟いた。嬉しそうに笑う声が聞こえた。

ある日ゼミの飲み会で終電間近に家に帰った。ソファで彼は寝ていた。読みかけの本を胸に抱いて眠る姿に、待ってくれていたのだと申し訳なく思った。髪を撫でていると彼は目を覚まして、お帰りなさいと言って微笑んだ。途端に眉を寄せて、香水の香りがしますねと呟いた。飲み会で両隣に女の子がいたから香りが移ったのかもと説明すると、言葉にはせずにみるみるうちに不機嫌になった。急いでシャワーを浴びて彼の元に向かって、匂い取れた?と尋ねてみた。怒った顔のまま倒れ込んできたかと思うと、首筋に顔を埋めて深呼吸して、これならいいですと呟いた。これから飲み会の時は気をつけなければと思った。

一緒に暮らすようになって何度か喧嘩をした。とはいえ喧嘩と呼べるほどの激しいものではなく、女の子たちからの連絡に返事をしていると彼が不満そうな顔をして機嫌が悪くなったり、大学の違いと時間割の違いに生活リズムが噛み合わなくなって、会話が減った時期があったり。それでもその度に互いに歩み寄って、謝って話し合った。穏やかな表情になった彼に仲直り、と言って口付けるのが決まりになっていた。君、キスすれば何でも許されると思ってませんか、と何度か彼に言われた。

大学卒業まで残り一年となった春、アメリカ行きの選択を迫られた。迷うことなく断った。先に海外で活躍しているキセキから電話をもらって、開口一番怒られた。怒ってくれた彼に感謝しながらも、決めたんだと話すと電話口の向こうで呆れたような溜め息が聞こえた。断った理由はただひとつ、その生活に彼がいないからだった。保育士の資格を取って就職を決めた彼の未来を奪うことなんて出来なかった。ただ傍に彼がいてくれるだけで幸せで、それなら自分が寄り添っていればいいと思った。ずっと一緒にいてくださいと、ソファで彼を抱き寄せて口にした言葉は心の底からの願いだった。


けれど同時に分かっていた。
恋人と呼べる今の関係は、恋愛の末に結婚というひとつの形がある男女のそれとは違うということを。自分にとっての幸福が、彼にとっての幸福であるのかどうかは分からなかった。いや、本当は。怖くて尋ねることが出来なかったのだ。



ある日、モデル仲間の女の子から電話が掛かってきた。飲み会で終電を逃したから泊めてほしいと言われた。一度は断ったものの、割と普段からよく話す子でもあったし、別に構わないという彼の言葉が決め手となって家に招いた。自分たちの関係を知らない人間が足を踏み入れるのは初めてのことだった。

お邪魔しますとさほど酔っていない様子の彼女はドアを開けると彼の存在に気付き、あれ、黄瀬くん独り暮らしじゃなかったんだ、と口にした。説明する必要なんてないと思っていたから、うん、中学からの友達、と返した。その瞬間隣にいる彼の動きが一瞬止まった気がしたけれど、確認する間もなく彼はお茶の用意を始めた。彼の淹れた紅茶を飲みながら女の子は口を開いた。ねえ、二人ってまさか、付き合ってるの?業界に自分同様の人間が存在することは知っていたけれど、今まで特別な友人以外に口外したこともそんな素振りを見せたこともなかった。瞬間的に口を衝いて出てきたのは、ううん、まさか、という二言だった。視界の隅で、きゅ、とテーブルの下で握られる彼の拳が見えた。そっか、と安心したように笑って彼女は話し出した。実はお願いがあって、田舎の両親が今度遊びにくる予定なんだけど、彼氏を紹介するって出任せ言っちゃったの。だから黄瀬くん彼氏のフリしてもらえないかな、両親すごく期待してて、一度だけでいいから。断ろうと口を開く前に彼の声が聞こえた。いいんじゃないですか、お似合いですよ。驚いて見た彼の横顔は見たことのない冷たいものだった。

翌日二人きりに戻った部屋で、どうしてあんなこと言ったの、と彼に尋ねた。同じ言葉をそっくりそのままお返しします、と言う彼の目は冷ややかだった。そのあとのやり取りは、おそらく互いにあんな剣幕で言い争うのは一緒に暮らして初めてのことだった。君が嘘をつく人だとは思いませんでした、だって仕方なかったんスよ、何がですか、これからの仕事に支障が出るかもしれないし、僕は君の支障になるってことですか、黒子っちには分からないかもしれないけどこの世界で噂の影響ってものすごく大きいんスよ、噂じゃなくて事実じゃないですか、黒子っちにも迷惑かからないように秘密にしてるんスよ、それじゃ僕らは一生隠れて過ごすんですか、だって男同士なんだから言える訳ないでしょそれに、それに何ですか、この関係を続けた先に幸せが待ってるかなんて分からないんだから。


思い返すとあまりに拙い感情論だった。それでも見開いた彼の目を見て、ひどく傷付いていることは予想できた。そうですか、と絞り出された声は小さくて、けれど次の言葉ははっきりと耳に残った。これからのことは君が決めてください、僕、もう君が分からないので。

事実彼とのことを公にするつもりはなく、けれど彼を愛しく思っているのは心からの気持ちだった。これまで曖昧なまま時間をやり過ごそうとしていたのだ。うすぼんやりと灰色に見えるイメージ出来ない未来から、耳を塞ぎ目を背けていただけだった。そう思うのはそれから時が経って少しだけ成長した自分がいるからで、当時の自分は混乱する感情のままに動かされて、逃げるように彼の元から去っていった。それが二度目であり許されないということだけは、はっきりと分かっていた。

大学卒業を機にモデルの仕事を辞めた。惜しむ声にありがたくも思ったが、自分の中のけじめでもあった。何より職業を理由にして彼との関係を隠そうとした自分を許せなかった。在学中に合格したパイロットの通知を見せることが出来なかったと、後から少し悔やんだ。きっとあの頃の二人だったら笑って喜んで、お祝いしましょうと彼は言ってくれただろうと思えた。想像をするだけで優しい気持ちになって、そんな些細なことにすら癒される自分がいた。


慣れない社会人生活と不定期なシフトのせいで、当初の約束から半年ほど経ってモデル仲間の両親に逢った。優しそうな相手の両親に向かって、すらすらと流れるように嘘をついた。真剣にお付き合いさせて頂いています。一瞬申し訳なさそうな顔を見せた彼女の隣で、事前に用意されていた言葉よりも多く喋った。彼女との結婚を考えています。驚く両親に頭を下げて、それ以上に驚いている彼女に笑いかけた。これでいいのだと、人並みに結婚して家庭を作って一生を終えることがきっと正しい在り方なのだと、ひたすら頭の中で繰り返した。

自分が重ねた嘘は想像していた以上に早く事を進ませて、結納を済ませることになった。着物姿の彼女は綺麗で、けれど一目見た瞬間脳裏に浮かび上がったのは彼だった。ここにいるのが彼だったら、祝福され誓いを立てられたらと、思う自分に蓋をした。左手の薬指に銀色の輪がはめられた。視界に入る度に心まで縛られているかのように胸が苦しくなった。これでいいのだと、もう一度自分に言い聞かせた。

残っていた自分の荷物を引き上げに帰ると連絡をした。彼からの返信はすぐに届いて、分かりました、とその一言だけだった。家に着くと彼が紅茶を淹れてくれていた。偶然かあの夜と同じフレーバーだった。家賃は自分が払うから気にしなくていい、家具も調理器具も食器もあげるから好きにしていい、見たくなかったら捨ててもいいから。そこまで言って彼を見ると、その顔は泣きそうに歪んでいた。彼を抱きしめると力一杯抵抗されて、押さえ込んで口付けるとやがて静かになった。そのまま彼を抱いた。苦しげに喘ぐ彼の頬に一筋の涙が流れていて、謝る代わりに抱きしめる腕に力を込めた。自分が最低なことは分かっていて、けれど何度となく口実を作っては彼の元に足を運んだ。その頃には彼女の家に住むようになっていたし、割り切った関係だと言うかのように指輪をはめたまま彼を抱いていた。好きだよと、口にする自分の言葉全てが彼にとって嘘なのだろうと思った。それでも自分にとってはたった一つの真実だった。やがてどちらからともなく、連絡を取ることはなくなった。それから一年が過ぎた。


ある休日、式場の下見の帰り、彼女にあなたが住んでいた街を見てみたいと言われた。なかなか式場決まらないねと溢す彼女に休みが合わなくてごめんねと謝り、一生に一度だから妥協しない方がいいよねと慰めながら、ずっとこのままでいいのにと思う自分がいた。生ぬるい中途半端な状態でいたいと願う自分はあれから全く成長していないのだと思いながら、差し掛かった十字路の向こうに公園が見えた。あの公園だった。公園って大人になってから行ってないとはしゃぐ彼女に、そう?と答えると、そういえばあんなところで待ち合わせるのは自分たちくらいだったのだろうかと考えを巡らせた。そうしているうちに、あのベンチに座りたいと彼女が駆け出した。無意識に伸びた手が彼女の腕を掴んでいた。不思議そうな顔をする彼女に、ほら、ワンピース汚れちゃうかもしれないから、と取り繕うと、そっか、と素直に言って通りを歩き出した。やがて駅に着くと、それじゃご飯でも食べよっか、と彼女が言った。駅前にする?と提案する彼女にいいっスねと返しながら、ぼんやりと公園のことを思い出していた。なぜかあのベンチに彼女を座らせたくはないと思った。あの場所はいつも二人で待ち合わせた、二人だけの、



「黄瀬くん?」



時が止まったかと思った。

世界に色が付いたように、鮮やかに景色が映り出す。まるで止まっていた時計が動き出したような感覚。出逢ってから今までの全ての記憶が走馬灯のように駆け巡る。些細なやり取りも、会話も、今までに見た表情も、全部。散らばったピースが収束するかのように、目の前に立つ彼の姿にリンクする。

「あれ、黄瀬くんと一緒に住んでた方ですよね?」

「お久しぶりです」

「ほんとですね、今もこの辺りに住んでるんですか?」

「はい」

「私たち式場の下見の帰りで。あ、これからご飯なんですけど良かったら一緒にどうですか?」

「すみません、行くところがあるので」

穏やかな二人のやり取りが続く。約束ですか?と尋ねる彼女の声に、いいえ、と聞き慣れた彼の声が響いた。

「毎年この日に、行くと決めている場所があるんです」

それって、と言う彼女の声を遮るように、それじゃまた、と彼は一礼すると背中を向けた。今日って特に何かある日じゃないよねと呟く彼女の声に、やがて人混みに紛れて彼の姿は見えなくなった。

修正したはずの世界にイレギュラーなものが現れて、そして、消えた。それは心のどこかでずっと求めていた存在だった。その夜食べた外食の味が分からなくて、帰るまでどんな会話をしたかも覚えていなかった。家に着いても何もする気が起きなくて、ソファに座ってただただ移り変わるテレビの画面を眺めていた。何ぼーっとしてるの、という彼女の声に我に返る。ごめん、疲れちゃったのかも、と言うと、一瞬ためらったのち、あのさ、と彼女が口を開いた。

「聞きたいこと、あるんだけど」

テレビを消して、正面に向かい合う。目を閉じて深呼吸をして数秒、ゆっくりと瞼を開いた。何を言われるのだろう、と思っていると。

「黄瀬くん、私のこと、好き?」

「うん、もちろん」

「でも私のこと抱いてくれたことないよね」

「え、」

「本当は、さっきの人のこと、今でも好きなんだよね?」

突然の指摘に声が出なかった。笑い飛ばすことなんて出来ないくらいに心は動揺して、彼女の目もそれほどに真剣だった。
答える間もないまま、本当は家にお邪魔した時から気付いてたよ、と彼女は話し始めた。それでもあの時両親についた出任せに困っていたのは事実で、黄瀬くんに好意を持っていたのも本当で、だから、両親の前で言ってくれた言葉はすごく嬉しかった、と。一息に話すと、でも、と続けた。

「好きな気持ちには正直にならなくちゃダメだよ」

ね、と。言い聞かせるように笑うと左手がそっと取られた。彼女の指が、薬指にはめられた枷を外す。銀色の輝きが彼女の右手に収められると、さよなら、と言って微笑んだ。その瞳から一筋の涙が流れた。ごめん、と言いながら抱きしめると、ありがとうがいいなと返ってくる。耳元で声が震えた。優しい嘘をついてくれてありがとう。そんなことを言われる資格はないのに、ありがとうと繰り返す彼女の声に、もう二度と嘘はつかないよ、と約束した。それがいいねと泣きながら彼女は笑った。


走る。
あと一時間切っていると心の中で焦りながら。
今日は忘れもしない、高校一年の夏、インターハイの数日後に彼を呼び出した日だった。

もし、彼があの場所を覚えていてくれたなら。
もし、まだ願うことを許されるのなら。

もし彼が、自分と同じ願いを浮かべていてくれたなら。

息を切らしながら辿り着いた公園は、あの頃と同じで人気がなかった。なぜなら今は夜の十一時を回っていて、そして。公園の入り口に背を向けてベンチに座っていたのは。

「黒子っち」

「…まだ、そう呼んでくれるんですか」

そう言いながら振り向いた、学生の頃より少し大人びた彼の、その笑顔は変わらなかった。変わったのは自分だけだったのだと、気が付いた。

「どうしてここに?」

「黒子っちに逢いたくて」

あの頃何度も繰り返した言葉は、いつかこんな風にまた口にする日が来ると思っていただろうか。婚約相手の方はどうしたんですか、と尋ねる彼に、別れた、と言うと驚いた顔をする。当然のことだった。嘘に嘘を重ねて見えない未来に怯えていたこと、全部彼女は分かっていたこと。ぽつりぽつりと話す言葉は夜の公園に静かに響く。話し終わると少しの静寂ののち、そうですか、と言うと、彼が顔を上げた。まっすぐに向けられた瞳の中に自分が映る。

「君はこの先、どうしたいですか」

離れたあの時と同じだった。全てを託すと言うかのように、彼の目も言葉も透明だった。
考える。それは恐れでもあった。そこに願いを重ねていいのだろうかと。その答えは、彼のあらゆる可能性を奪うことになる。時間も未来も、何もかも。

もしかしたらこの先、君は別の誰かと出逢って、並んで幸せそうに笑っているのかもしれない。その人と共に築く家庭は想像できないくらいにまばゆく輝くものかもしれない。もしかしたら薬指から外した指輪のその先に、幸福だと感じる自分がいたかもしれない。
でも。
それでも心に、脳裏に浮かぶあらゆる場面にいるのはいつも君の姿だった。

「あの時の俺と黒子っちが、これから先一緒にいる未来を」

もう一度、つくりませんか。

願いにも似た呼び掛けにしばらくの間返答はなく、変化があったのは見つめる彼の瞳だった。透明な水がみるみるうちに溜まって、そして。
両の目からぽろりと零れた。

「黄瀬くん、僕は」

言いながらそれは溢れて落ちて、やがて彼は顔を伏せて嗚咽に変わった。無意識に伸ばした右手は彼の腕に掴まれて、握ったまま離そうとしてくれない。泣きじゃくる彼はまるで子供のようだと、そう称したら怒るだろうか。以前のように。

ぎりぎりと握る力が強いものだから、やがてその跡が残ってしまうかもしれないと考える。それは一見恨みにも怒りにも思えて、けれどそれで良かった。駆られた罪悪感はたとえ彼に何をされても許すだろうと思ったし、その全てが愛しいと思いながらも突き放し、背を向けた自分を誰よりも許せないのは今ここにいる自分だった。

「僕は、あの時とずっと同じところに立っていますよ」

どこまでも透明な彼の瞳から、まばたきと同時に流れた一筋のそれは、なんて綺麗なのだろうと思った。腕を掴んでいた手が離されて、やがて指先が握っていた箇所をなぞった。爪跡は傍にいる証なのだとでも言うように。指先を包むように指を絡めると小さく握り返される。潤む瞳はまるであの時カーテンの中にいた君のようだと、言ったらどんな表情をするのか分からないけれど。

「それじゃ、俺もその隣に立っていい?」

頷いて、顔を上げた彼の口元は笑っていて。繋いだ手の甲に口付けて誓いを立てた。それだけですか、と言う彼に苦笑すると抱きしめて頭を撫でる。子供のようだと怒る彼はいなかった。

「あの。今日から黒子っちの家に住んでもいいっスか」

恐る恐る尋ねるときょとんとした顔で、何を言ってるんですか、と不思議そうに言う。

「あそこは昔も今も、僕ら二人の家ですよ」

今度涙腺が緩むのは自分の番だった。あの家とあの場所で、ずっと彼は待っていてくれたのだ。もう一度二人の時間軸が交わるその時を。今度は君が子供になる番ですか、と背中を撫でながら彼が言う。この手が離れないのならそう呼ばれても構わない。好き、大好き、と、零れ落ちる感情は濁ってうまく言葉にならなかった。けれど彼には伝わったようで、僕もです、と優しい声が耳元で聞こえた。

「帰りましょうか」

「うん、一緒に」

夏の夜は蒸し暑く汗ばんで、繋いだ手も互いに熱かったけれど、そんなことは気にならない。小さくお腹が鳴る音がして、お腹すきました、と彼が呟いた。何か買って帰る?と聞くと、はい、と素直に一言。じゃあコンビニ寄ろっかと提案するとスーパーがいいですと返ってきた。冷蔵庫空っぽなんです。自炊やめちゃったんスか?と尋ねると、はい、と返ってくる。仕事が忙しいのだろうかと考えているとそれが分かったのか、忙しいのが理由じゃないですよ、と彼が言った。

「それだけじゃなくて、食べてくれる人がいないと作る気が起きないんです」

なんて可愛いことを言うのだろうと、立ち止まって腕に抱くと困ったような顔をして、けれど離れようとはしなかった。どうせ真夜中の通りには誰ひとり歩いていない。十四歳の君ならきっと、恥ずかしそうな顔をして腕からすり抜けていた。今すり抜けて欲しいとは思わない、それでもすり抜けていたであろう過去は残していたい。あの頃の君と積み重ねた時間があって、今変わった君がいる。それは覚えていたかった。

パイロットという職業はシフトも休みも複雑で、早朝から長距離を飛んで、戻って、また飛んでその土地に宿泊することが多い。一緒にいられる時間が減るのは確実だった。俺がいない日もご飯ちゃんと食べなくちゃダメっスよ、と注意すると、いない夜に電話してくれるならと返ってきた。スーパーが見えてくる。何度も二人で通った場所だった。込み上げた懐かしさに、嬉しさに、視界がぼやけてうっすら霞む。

「ねえ、俺の食器捨てちゃった?」

「捨てました」

「えっ」

「嘘ですよ」

良かった、と胸を撫で下ろしていると隣で彼が小さく笑う。一人じゃなんだか使えなくて、と呟いた声はどこか寂しそうに聞こえて、ごめんねと言って握った手に力を込める。今日はたくさん買うから持ってくださいねと悪戯っぽく笑う声に、もちろんっスよと強く返した。

「黒子っち」

「はい」

「これからも一緒にスーパー行ってくれる?来年も、十年先も、その先も」

口にしてすぐ、もう少し格好のついた言い方はなかったかと反省する。けれど彼は笑うことなく、はい、と笑って答えてくれた。ああそうか、と思った。格好つけてみせる自分も、弱ってひどいことを言って傷つけた自分も、その情けなさも全て彼は知っていて、だからきっと。今の言葉ひとつで彼にだけは伝わったのだ。スーパー以外も行きましょう、と彼が言う。色んなところ?はい。二人で?はい、二人で。

いとおしい、心の中で溢れる感情を繰り返す。今まで何度となく伝えた言葉も新しい光を帯びていて、だからどれだけ繰り返せばいいのか分からなかった。どれだけ繰り返しても足りないと思った。

「大好き」

「はい」

「愛してる、」

「僕もです」

電灯の下で交わしたキスは、教会で誓う口付けと何ら変わりがないように思えた。いや、変わりないのだ。二人にとって。

もし、の話はもうしない。分かっているからだ。この先の未来、かつて灰色だったそれはいつしか色を帯びていて、それは隣に彼がいるからだと。そうですね、と言うかのように、絡めた指がそっと握り返された。









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20170731

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