海の青は、光の反射によるもので。
空の青は、光の散乱による。
いつか授業で習った知識を頭の中でなぞってみる。
違うけれど、どちらも青い。
なら理由がなんだっていいじゃん。
そう言いそうだな、彼は、思いながら隣に立つその人を見やる。
僕よりも背の高いその人は、何を考えているのか、ぼんやりと遠くを見つめていた。
「なぁテツ」
「はい」
「空ってさー、…」
「はい」
「青いよな」
「………。はい」
目線を変えずに投げられた質問に、もしかして自分と同じことを考えていたのだろうか、と少し驚く。バスケこそ同調するものの、考え方は正反対だったはずだけれど。
「だよなぁ」
「はい…」
首の後ろで腕を組んで大きく息を吸い込む。あー、と言いながら首を伸ばして、少しだるそうに目を閉じた。
何を考えているんだろう、そう思いながら彼が見ていた方を向く。目を凝らさなくても見える海。今日は日差しが熱いほどによく晴れていて、遠くで水面がまばゆく光る。足を動かすとやわらかな音を立てる青草。
「お前、夏の課題とかねぇの?」
「特にないですよ。僕のゼミは各自進めるというか」
「まーもうそんなに授業もねぇしな」
「そうですね」
突然変わった話題に何の気なしに答える。そういえば、今日は日付で言うと夏休みの初日だった。大学3年目、折り返しに当たる。
大学はばらばらで、それでも当たり前のようにいつも一緒にいる。あまり遠くない家の距離と、大学という融通の利くスケジュールのお陰で。
前期の試験が終わればもう夏休みで、すでに突入していた青峰くんと、今日から休みに入る僕とで出掛けに来たのだった。
平日の空いた電車に揺られること数時間。
人のいない初夏の丘からは、少し遠くに海が見える。
「青峰くん、海が見たかったんですか?」
「海っつーか、空っつーか」
よく分からない返答に、はあ、と相槌を打つと、確かに海を見るなら丘に上る必要はなかったと考える。
「なんつーか、空に近ぇなと思ってよ」
「丘が、ですか」
「まぁな」
随分詩的なことを言う、と思いながら景色を眺めていると、
「っあー、だから!」
突然上げた大声に驚いてしまう。
「…どうかしたんですか?」
「電話があったんだよ」
「電話?」
「大学卒業したらあっちのチームに来ねぇかって。アメリカ」
「…アメリカ…」
彼が目指す場所のあるところ。
頭の中が真っ白になっていく。
この人からバスケという単語が消える訳はないと、分かっていたのに。
それでも、大学のあとに待ち合わせて、出掛けて。お互いの授業や課題の話、ゼミの話をして。部屋で一日中一緒に過ごして。
そんな時間の、緩やかに過ぎていく日々が、このまま穏やかさを保ってくれるような、そんな期待をどこかでしていた。
「…行っちゃうん、ですね…」
「あー、だから!」
頭を掻いて、吐き出すように続ける。
「俺、お前のこと」
「はい」
「幸せにできるかとかよくわかんねぇし」
「はい」
「もしかしたら不幸にさせるかもわかんねぇんだよ。だから」
「…はい、」
その先を聞くのが、怖い。
僕はどんな風に見えているんだろう。視線が落ちていく。
怖い、
「アメリカ一緒に来いっつってんだよ!」
「…………え?」
瞬間、風が吹いた。
草がそれに乗って散っていく。柔らかな緑が視界を掠める。
「もうお前がいないの、嫌なんだよ」
歪んだ彼の顔は、ああ、見たことがある、
苦しさに耐えている顔だ。
彼なりに時間を掛けて、悩んだ証だ。
「……何を言っているんですか」
「え?」
「馬鹿ですね、………君は…」
声が濁る。
目の前の青峰くんが動揺する素振りを見せて、でも、その表情はどんどん見えなくなっていく。
「え、お前、なん…」
「馬鹿、ですよ」
視界が。
光でいっぱいになって、眩しい。
同じ時刻でも季節が変われば、驚くほど早く世界に陰を落とすのに。
まばたき出来ないほどに、全てが混ざって潤んでいく。
「僕が、君の傍を離れたいと思いますか」
「僕が幸せか不幸かなんて、分かるんですか」
それは僕が決めるのに。
だって、先に離れていったのは君なのに。
その後何度重ねても、あのとき待ち続けた拳の空虚さは、今でも忘れられはしないのに。
喧嘩したって何があったって、
一緒にいられないことのほうがどんなに苦しくて辛いか、君は、
「テツ」
「君が、君です、あのとき」
まくしたてるような声を、身体は発するたびに熱を帯びていく。
枯れたって構わない。
何をしてもあのときには届かなかったのだから。
僕の手をすり抜けていったのは君なのだから。
なのに、
なのに、何でそんなことを言うんだろう。
「悪い」
ふいに、
視界が暗くなって、抱きしめられているのだと分かった。
痛いくらいに。
「悪かった、自分勝手で」
「そうだよな、中学んとき離れていったのは俺だよな」
呟くように、もう一度、悪い、と言うと、抱きしめる力は抜け出せないくらいのものになった。
身体が熱い。
おそらくどちらも、僕も、彼も。
「許されないことしたと思ってる」
いつもより饒舌な彼の表情は見えない。
必死で言葉を紡いでいるのが分かる、それだけで本当は。僕だって。
「だけど、今までだってこれからだって、一緒にいたいのはお前だけなんだよ」
涙でぼやけた視界が、
「一生傍にいてくれよ、テツ」
割れて、はじけた。
頬に伝ったそれを指ですくい取りながら、俺だってさ、と話し出す。
「俺、お前が思ってる以上に反省してんだよ」
「……そうなん、ですか」
「許してくれとか、言ってねぇじゃん」
「…………、そういう問題では」
前髪をかき上げられて、汗ばんでいたことに気づいた。撫でる口元は微笑んでいるようにも。
「それでも、これから先色々あんだろうけど、隣にいるのはテツじゃねぇと嫌なんだよ」
「……青峰くんは、我が儘ですよね」
否定も肯定もせずに仰いで、ここ、空に近いから言いやすいかと思って、と説明する。
青峰くんらしくないのは、今日のことを誘われる前から始まっていたのだ。
「断るのは禁止だかんな」
「僕だって、離れろって言われても、離れるつもりはありませんよ」
喋りながら彼の左手が指を絡め取っていく。
一本、二本と身動きが取れなくなった手は、そのまま彼のそれに包まれた。
「青峰くん、約束をしてくれませんか」
「……何すりゃいいんだよ」
「キス、してください」
「はぁ?そんなん…」
「今までで一番優しいやつを」
慌てたように顔を離すと、まじまじとこちらの顔を見てくる。それでも、握りしめた僕の手を離そうとはしない。
「…お前、なんかワガママになってねぇ?」
「君と同じくらいのつもりですけど」
恥ずいだろ、と横を向いて呟く彼に、
約束してくれるんでしょう?と口角を上げてみせれば、はあ、と大きく溜め息をつく。
思わず小さく笑ってしまうと、つられたように青峰くんも笑いだした。
我が儘だと、何だと、言われてもいい。
君が僕を見てくれるのなら。
「目ぇ、閉じろよ」
「はい」
瞼の裏で、西日を感じる。
やがて落ちる前の強い光。
それでも今交わす約束は、消えない。
何かを守るようにそっと彼の唇が触れて、そのままゆっくりと重ねられた。
頬に添えられた右手はその光を遮って、けれど、彼の体温で温かい。
「あっちの空ってどんな色してんのかなー」
「こちらより鮮やかかもしれませんね」
「向こう行く荷物作んねぇとなー」
この後準備すっか?と、わりと真面目な顔をして言う。あと一年以上も先の話だ。笑ってしまいそうになる。
「気が早いですよ」
「そっか。あ、つーか先にアレだな」
「はい?」
「揃いの指輪。作んねーとな」
どこに、と尋ねる前に、
左手の薬指がなぞられた。
「………それは、すごく楽しみです」
「だろ?」
にやり、と笑う彼の顔が。
いつもより少し幸せそうに見えたのは、
オレンジに変わりかけの太陽のせい、だけではないかもしれない。
*******
青黒プロポーズ。
過去に向き合って、衝突も和解もして、それでもこの先も一緒にいたい、そんなふたりであってほしい。
20170630