誰の言葉だっただろうか?
人生とは半分の幸福と半分の不幸でできている、と。
初めて見たときは、そうなのか、と、ただ漠然と思った。疑問も実感も思い当たるものはなく。
そして二度目はたしか、苦しいと感じていたときだっただろうか。今ある苦しさから抜け出せるのならば、早くそのときが来ればいいのに、ひたすら願った。
そうして、三度目は。
「…あれ……まだ起きてたの、黒子っち」
静寂に浮かんだ声にその主を見ると、うっすらと細めながらこちらを向いていた。今にも閉じてしまいそうな目。
「すみません、明るかったですね」
「ううん、…」
声色は溶けるように小さくなっていく。
ベッドサイドのスイッチを消して、読みかけの本を閉じる。
冒険もミステリーも恋愛も、あらゆる事象がこの中にある。自らにない世界を、文字に乗ってなぞるのだ。
その感覚が好きだった。自分ではない自分がそこにある感覚。ありえない感触。
「黒子っち、こっち…」
聞くはずのない声に驚いて右を向くと、寝ぼけているのか手を広げながらこちらを向く黄瀬くんの姿があった。子どものようにあどけない。いつもあんなに背伸びしてみせるのに。
その中にそっとおさまってみる。
大きくて温かい。彼を子どものよう、なんて、比べてみれば今の僕のがよほど子どものようなのに。
この温かさはいつもと同じだ。
けれどそれは今までの積み重ねであって、"いつも"がこれから続くとは限らない。
もし、ある時、どちらかの言葉ないし行動によって壊れてしまったら。
この温もりは嘘のように消えてしまうのだ。冷たいベッド。
それは、嫌だ、と思った。
そこにないのが当たり前の日々も存在していたはずなのに。その安らぎと優しさを、知ってしまったのだ。
いつ壊れてもおかしくないと怯える自分。それは今まで読んだ本の中にいたかもしれない、おそらくいたはずの、
でも現実には存在し得ない自分だった。
仰ぎ見ると、止まったかのように眠りに落ちた彼が見える。睫毛が長い。肌が白い。
ほんの少し見つめているだけで、こんなにも彼を誉める言葉が浮かぶのに。現実には滅多に口にしない。
彼を称賛する言葉は数多くあり、それを口にする人々も数多く存在する、それに属さない自分を興味深そうに、時に嬉しそうにしている彼を知っている。
もし僕が他の人と同じ行動に出たら、褒めてみせれば、彼はどう思うのだろう。
やっぱり皆と同じだったと、落胆し愛想を尽かすのではないか。そんな不安さえ、見せるのが憚られるほど。
本当は僕は臆病で、失うのが怖いのだ。
「黄瀬くん」
しんと張りつめた空気の中で、わずかに掠れた声が響いた。
静かな心音。温かい身体、
自分のことを好きだと言ってくれる感情が、この中にある。
いつまで言ってくれるのだろう?
いつまで想ってくれるのだろう。
「…どうしたの?」
「すみません、起こしましたか」
「まだ、寝ないの…?」
「あと少しだけ」
髪をそっと撫でると気持ち良さそうに微笑んで、頬にゆっくり口付けられた。
そのまま身体に落ちてくる重み。彼は眠りにつくのが早い。もっとも僕も、いつもは同じなのだけれど。
ああきっと、
その三度目は、今で、
今あるこの幸福を打ち破る『何か』が、幸福の対になるものが。
来ないようにと。そう願っているのだ。
横目で見上げた先の時計は、ちょうどある時刻を指していた。
こんなときに先に寝るなんて、と、明日小言を言ってみようか。疲れてたんスよ、許して、と泣きつく姿が思い浮かぶ。
僕のために情けなくなってしまう君の姿さえ、
想像するだけで、どうしようもなく。
彼の背中に腕を回す。安らかな寝息のそばで、耳元に顔を近付けて。
「黄瀬くん」
いつか失われる幸福が、もし今この瞬間だとするならば。
その打ち破るものを壊してしまうくらいに、離さずに愛して欲しいと。
それは口には決してしないけれど、
「誕生日、おめでとうございます」
「ずっと、君のことが好きですよ」
この言葉くらいは、贈り物にする。
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20160620
HAPPYBIRTHDAY黄瀬!
幸せな1日を過ごせますように。