やめたい訳じゃない、でもちょっと疲れちゃっただけ。
『今から帰るっス!』
いつものように送信、最寄駅まであと三駅。こうしてメールを入れておけば玄関のドアを開ける頃には夕飯の支度が出来ている。それを知って以来送るようになった連絡メール、返事はめったに来ないけれど構わない。支度している様子を浮かべたら口元が緩んだ。
台所に立つときは必ずエプロンを付ける、その姿に、最初見たときは笑ってしまって、火神っちは不思議そうな顔をしていたっけ。二人しかいないから、笑った俺が変な人みたいになってしまって。押し黙ったのを覚えている。今では当たり前になった日常風景。
帰ったら一番に何の話をしようか、今日は仕事の話はしたくない。ああそうだ学校の話をすればいい。うちの先輩の話をして、そのあと誠凜はどうかと切り返せばしばらく聞き役に徹せられる、明るく喋って笑っていれば、いつもみたいに、
あれ、『いつも』って何だっけ。
窓の外を眺めれば、ぽつぽつと雨が降り始めていた。ガラス越しに見える女子高生二人。こっちを見ながら小声で話しているのが見える。だから目線は向けずに気付かないフリ、どうせもう次の駅で降りるから。雨はどんどん強くなってガラスは横殴りの水滴でいっぱいになる。それでいい、何も映さないで欲しい、もう。見たくない。
仕事の合間に読んだ雑誌を思いだす。読者投票の人気ランキング。下らないと思いながら、その順位を気にかけている自分に気付いた。
窓ガラスに映るあの子たちは、俺がいなくなったらきっとまた誰か別の相手を見つけるだろう。騒ぐ為の。一時しのぎの。
うんざりする、自分の理想を当て嵌めて、少しでも違えばすぐに次を探して。いつ消えるか、いや、いつ消されるか分からない。人の評価で成り立つ世界。選んだのは自分なのにそんな世界にしがみついて、また今日も作り笑いをして。求められる黄瀬涼太を考えて、作って、積み重ねて。そうしたら分からなくなってしまった、自分が何なのか。どの思考が自分のものなのか。
本当はここで笑い掛けるべきなのかもしれない。そう思いながら電車を降りる。傘はない、だけど買うつもりもない。ぐちゃぐちゃになってしまいたかった。雨を浴びたら、塗り重ねた作り物の自分も一緒に洗い流してくれる気がした。
「……あれ?」
駅の改札をくぐると中央の柱に見覚えのある姿、いつもと違って見えるのは、普段こんなところで待っているような人じゃないはずで、しかも傘を二本持っていて。
「黄瀬」
「火神っち!」
目が合うとイヤホンを外しながら傘を突き付けられて。とりあえず差し出された柄を握る。外は本降りの雨だ。
「迎えに来るなんて珍しいっスね」
「夕飯の支度出来たから」
雨で声は掻き消されて、だんだんどちらも喋らなくなった。車が出す水しぶきの音と、雨が傘にぶつかる音と。互いの足音。
ようやく口を開いたのは、マンションのエレベーターに乗り込んでからだった。
「今日の夕飯何スか?」
「サンマと筑前煮」
「あー、もうそんな時期か」
ダイニングに入ると、すでに支度が整っていて。良い匂いがする。振り返ると目が合って、手洗ってこい、と言われた。急いで洗面所に行って、席について。同じテーブルに並ぶ、それだけで幸せで。
「俺、火神っちの筑前煮好きなんスよ」
「前喜んでただろ」
「覚えててくれたんスか」
そこまで口にして、あ、と思った。
分かんないスよ、と呟くと、独り言のつもりだったのに聞こえてしまったようで、は?と聞き返してきた。黙っていると顔がこっちを向くのが分かった。
「分かんないっスよ?もしかしたらそれ、喜んでくれるって分かってるから言ったのかもしれない」
「は?意味分かんねぇ」
「俺そういう奴なんスよ。好かれる為に何でもするの」
どうせなら好かれたい、一人だって多くに褒められたい。だから偽って重ね続けて。金とか名誉じゃなくて、欲しいのは永続で。
怖い。ただひたすら怖い、いつかある日突然いらないと背を向けられることが、怖い。
俯いて目を閉じる。そうしたら何も見えなくなった。呼吸も自分のものしか感じられなくて、そうしたら独りになった気がした。
目の前にいるこの人もいつか自分の元から去ってしまうんだろうか。そうしたらこんなに暗くて静かなんだろうか、
気持ちを繋ぎ止める為に嘘を並べることは罪なんだろうか。
どうでもいいだろ、
小さく呟く声が聞こえて思わず目を開けた。眩しい。
「それでも美味いって言う時の顔は本心だろ、それでいい」
「顔?」
「顔」
「どんな」
「美味いって言って笑った顔」
「いつ?」
「前に筑前煮食ったとき」
「俺笑ってたんスか?」
「笑ってた」
お前考えすぎ、そう言って頭をぐちゃぐちゃと掻き混ぜられる。せっかくセットしたのに。髪を撫でてほしかったから。柔らかくて気持ちいいって言われた、それが嬉しかったから。
ああ、そうか。
「俺、火神っちのこと好きなんスわ」
何が本当の自分かなんて。
この人が好きだ、目の前で少し困ったように眉をひそめて、決して上手とは言えない励ましの言葉を考えているこの人が好きだ。好きだから嫌われたくない、離れて欲しくない、そう思うこの瞬間こそが偽りのない自分で、感情で、
「多分火神っちが思ってる以上に、ものすごく」
何を話せば楽しいかなんて。
別に喋らなくても、同じ空間にいるだけで充分なんだった。ただ隣にいるだけで。当たり前になっていたから忘れていた。
「…冷めちまうから食おーぜ」
ぽん、と頭を叩く手。
あ、これ、知ってる。
「あ?何笑ってんだよ」
「…そうやってすぐ食べ物の話題出してはぐらかすの、火神っちのクセっスよね」
「……そうか?」
「うん、そう」
会話のタイミングだって表情だって誰よりも知っている。誰よりも傍にいるからだ、誰よりも好きだからだ。
顔が近付いてきたから目を閉じる。そうしたら、額にそっと唇が触れて。キスの位置が予想外で勢いよく目を開けると、至近距離で目が合って。思わず互いに笑ってしまった。
「そうやって笑うときの顔、」
小さく呟くのが聞こえた。
その続きは?ねえ、火神っち、
そう促すと顔を逸らして筑前煮を取り分け始めた。すぐそうやって食べ物に話題逸らす、思ったけれど口にはしなかった。身体を屈めて覗く必要なんてなく、彼の赤い横顔がしっかり見えていたからだ。
「俺、火神っちの作る料理大好きっス」
「…おう」
「あと火神っちも」
好きなものを好きと言っていいんだ、そう思えるのはこうして隣にいてくれて、
「でもさっきのは口がよかったっス」
「…あっそ」
「口にして、火神っち」
「今取り分けてっから後で」
「今すぐ!」
「お前な…」
呆れた顔をして、
こうして口付けてくれる君がいるからだ。
「あー、そういや言い忘れてた」
帰りを知らせる10文字以内。返事はない。気持ちは何文字なんて数えられない、表せられない。表さなくても返事がなくても、お互いの本心は分かっている。
「おかえり」
「ただいま」
だからまた明日も、メールを打つ。
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10月7日火黄の日、
黄瀬は自分を偽りがちなんじゃないかと思います、そうしていつしか本当の自分が分からなくなって、でも二人でいる空間はそんな悩みさえ意味がないんだと、好きという感情と一緒に気付いたらいいと思います。
20121018