躊躇ったのは初めてだった。名前を呼ぶことはあのとき以来避けていたから。それでも呼ばない訳にはいかなくて、川辺に座り込んで動こうとしない相手に、仕方なく赤司、と呼びかけた。
3メートル先にしゃがむ赤司の顔は土手の上からだと見えない。何をしている訳でもなくただ川の方向を向いて。もう一度呼びかける。それでも返事はなかった。
躊躇うだなんて珍しいことになったのは一週間前、奴が突然下の名前で呼んできたからだ。大輝、不意にそう呟いて、少ししてからまた大輝、と口にした。それ以来その呼び方は変わらずにいる。他の奴をどう呼ぶのかと見ていれば、黒子、黄瀬、と呼んでいて。二人になった瞬間だけ、まるで特別だとでも言わんばかりに大輝、と口にした。
同じように下の名前で呼ぶべきなのか、一瞬よぎった考えを捨てることも拾うこともできずにいた、恋人と呼ぶには遠い気がする、互いに刃を突き付けている。その答えを出せないまま、なのに恋人と呼べるような行為をして、口付ける度に名前を呼ぶ声に、それでも口には出来ずにいた。
「赤司」
土手を下りながらもう一度呼ぶと、ゆっくりと顔を上げた。まるで今初めて存在に気付いたかのように。大輝、と呟いた穏やかな声は、足を止めさせるだけの質量を持っていた。
どうして突然こんな呼び方をし始めたのかは分からない、でもそう呼ばれる度に、その声は柔らかく確実に心臓に食い込んで抉っていった。今みたいに。
「お前寒くねぇの?」
「寒いと言ったら何をしてくれるんだ」
「寒いなら川から離れりゃいいだろ」
そういう意味じゃない、と言いながらそれでもまだ動かない、見上げた顔を戻して水面を眺めている。
入水自殺。
古典の授業で聞いたばかりの単語が頭の中で浮かんだ。まだ鮮明なその記憶は、目の前で川を見つめる赤司と重なって、入水自殺を図る姿が目に浮かんだ。
悲しいだとか怖いだとかそれより先に、綺麗なんだろうと思った。こいつの髪の色のせいかもしれない。夕日を浴びてオレンジ色と混ざっているからかもしれない。隣にしゃがみ込んだ瞬間冷たい風が吹きつけた。
足元に転がっている石を拾う。手にしたそれは平べったくて、でもしゃがみ込んだまま投げたから大して飛ぶこともなく、ぼちゃんと鈍い音を立てて川に落ちた。
視線を感じて隣を見ると、目が合った瞬間川の方へと逸らされた。同じ方向を見やる。水面。光が反射して眩しい。風で揺れて、もうどこに石が沈んだのかは分からない。
長く伸びた前髪が目にかかっていて、痛くないのかと思いながら手を伸ばして。その細い髪を梳くと顔が動いて、目が合った。
「大輝」
またその言葉が耳に入って、それは抜けずに留まって、響く。
「大、」
だからそのままその口を塞いだ。
聞きたくなかったと言ったら嘘になる。
こわい、と思った。
その言葉は自分の名前なのに、奴が呼ぶだけで妙な重たさを纏って、まるで飲み込まれてしまうように感じた。
支えるのも連れていくにも、それは大きすぎると思った。
だってまだ、一言だって聞いたことすらなかった、
「赤司」
「うん?」
「死んだら呼んでやるよ、お前の名前」
「誰が死んだら?」
「お前が」
触れるか触れないかの距離で、目が合ったまま。ついこの間もこうしていたと思いながら、確かめもしない気持ちを抱えたまま。そしてまた唇の間で、馬鹿だな、と声が聞こえた。
「怖いのか」
返事はしなかった。否定も肯定もするつもりはなく出来もしなかった。ただ一言で表現しようとするなら、押し潰される。何に?気持ちに。
そのまままた前髪を梳こうと手を伸ばすとその腕が掴まれた。力はない、でも離す意志も恐らくない。
「お前の人生なんかいらないよ」
「誰もお前にやるなんて言ってねぇよ」
小さく笑った気がした。そんなものに捕らわれる方がよほど、そう続けると腕を離した。
「期待なんてしていない、それでもお前の所有権は」
ぐ、と襟首が掴まれて、
そのまま唇に触れたのは。
「僕のものだと。証明しただけだ」
そう言って、足元で握りしめていた手を引き上げる。隙間に挟まっていた草が引きちぎられる音がした。手を開いて下に向けるとばらばらになったそれが舞う。
分からないのなら教えてやろうか、
そう呟いて、地面に散らばるそれを眺めながら。
「好きだよ、大輝」
「…ざけんな、んなもんうぜぇくらい分かってるっつーの」
「生意気に」
そう言って薄く笑った唇に噛み付くように口付ける、重なる瞬間、口角はさらに上がったように思えた。
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20121015