ああもう、記憶を辿る以外に方法はないのだと思った。
すべてはこの機械が記憶していた。それを理解していたのは事実だったのに、それを介しているということを、これが壊れてしまえば言葉一つさえ届かないのだと、分かっているのに忘れていた。なくなるなんて有り得ないと思い込んでいた都合のいい回路、
そう思いながら、水溜まりに沈むそれを見つめていた。
「あの、黄瀬くんですよね、モデルの」
「そうっスけど」
相手が何かを言おうとする前に、ごめん、これから仕事だから。そう言うと残念そうな顔をしながらも離れていく。この場所に立ってから何度目かのやり取り。
仕事という単語をこんな風に使っていると知られたら、彼はどんな顔をするだろう。そう頭に浮かべながらしゃがみ込んで、子供のように砂に指をなぞらせた。
校門で待つこと三時間、ここの場所も行き方も、調べる術はないから駅で全部聞いて。暇を潰すものもない。ただ時間と共に色が変わる空を見て、流れる雲の数を数えて、今みたいに時々掛けられる声から逃れて。
何を考えていたんだったか、ああそうだ、彼の表情を想像していたんだった。彼は少しだけ眉をしかめて、そのままきっと何も言わないんじゃないかと思う。口に出されないことの方が余程堪えると、彼は知っているだろうから。
あいたい、声に出さずに口だけ動かして呟いた。
見上げると空は橙に染まっていた。逢えるだろうか。土曜日の学校、けれど今日ここで練習しているとは限らない。試合で他校に行っているかもしれない、そうしたら逢えずに終わってしまうかもしれない。誰もいない通りに乾いた笑いが漏れて、響いた。
「…涼太?」
顔を上げると、夕日で少し逆光で。一歩進むとその影は遠退いて、ずっと待っていた相手が姿を現して、
「赤司っち!」
名前を呼んで駆け寄ると、彼の数メートル後ろからぞろぞろと続いてくる集団が見えた。皆同じジャージを着ている所から察するに、洛山バスケ部のメンバー達だろう。
「どうしてここに?仕事か?」
「あ、いや」
歩みを止めた彼と部員達の距離は縮まって、立ち止まったままの背中を見て不思議そうな顔をして。少し後ろで同じように止まって、様子を伺っているのが見える。
それに気付いた彼が振り返って、先に帰ってくれ、と告げると、黙って遠ざかっていった。その中の数人は僅かに不思議そうな表情を浮かべたまま。どう見えているんだろうか、俺は。少しだけ風が吹いた。
「それで?どうしてここに」
「逢いたくなって」
「…何ともない土曜日に?」
「あー、その、携帯が壊れちゃって」
水没したんスわ、と言ってポケットから携帯を取り出すと、それを手に取って。真っ暗な画面を見つめながら、落としたのか、と呟いた。
「それでわざわざ?」
「だってメールも電話も出来ないじゃないスか」
メールアドレスも電話番号も暗記してはいなかった。他の皆に聞こうにも連絡自体取る術がない。それに何より浮かんだのは。
「…もう連絡できないかもって思ったら怖くて、そしたら余計に」
逢いたくて。
そう口にした言葉は、抱きしめて彼の髪に顔を埋めたまま喋ったから、少しくぐもったものになった。
こんなことで簡単に消えてしまう関係だと思ってはいなかった、それでも繋ぐものがなくなってしまったのは事実で、そうしたら足は向かっていて。濡れた携帯をまるでお守りのように握りしめて。
「僕から連絡するまで待てばよかっただろう」
「あ、そっか、でも」
「何だ」
「赤司っちからメールなんて、くれるの?」
そう言うと僅かに動いて、斜めに見上げるその目と視線が合った。
「どういう意味だ」
「いや、だって赤司っちから連絡って」
彼から届いたことはない。けれど自分から電話を掛ければ取ってくれたし、メールをすれば返ってきていたから。とても短い文章が。だから、いや、気にしたことがないと言えば嘘になる。
「連絡、してくれるほど俺のこと好きなの?」
抱きしめるのもキスをするのもいつも自分からだ。気付いていた。それでも一人納得して終わらせていた、自分の気持ちの方が大きい割合を占めているだけだと。
だからそれは純粋な質問で、けれど口にした瞬間、少しだけ彼の目が見開かれて。
そしてその後腕の中でゆっくりと下を向いて、顔は見えなくなった。
「…嫌いじゃない」
「嫌いじゃない?」
「嫌いじゃない」
それってどういうこと?そう聞きながら顔を覗き込もうとすると、顔はさらに斜め下を向いて、さあ、と小さく呟いた。
「好きって思っていいんス、よね」
返事がないから空いた手に指を絡ませると、きゅ、と小さく握り返してきて。
身体を屈めて顔を近付けると、重なる瞬間、目を閉じた。
「お前いつ帰るんだ」
「今日は遅いから泊まってってもいいスか?」
「勝手にしろ」
当たる風は少し冷たい、さっきまですぐそばで見えていた夕焼けはもう遠くに消えて、辺りは淡い群青が占めていた。
歩きながら口付けるとずれて頬にキスしてしまって、歩きながらはやめろ、と呟いて。だから立ち止まって口付けた。目が合ったまま。僅かに唇が重なったまま、好き、と言うと、返事はせずに目を閉じて、身じろいで。さっきよりも唇の触れる表面積が増えたと思うのは、気のせいだろうか。
「二文字が嫌なら五文字でもいいんスよ?」
「……誰が言うか」
「じゃあ好きって」
「言わない」
頑なに繰り返す彼にまた口付けて。目を閉じる瞬間はキスを待っているように見えて、それがすでに言葉の代わりで、でも。
「それなら、」
言葉と唇が耳を掠めた瞬間、小さく動いて染まった頬は。
夕焼けのせいにできない色をしていると、言ったらきっとほどいてしまうから、その前に強く指を絡めて握りしめた。
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気付きと隠しを繰り返す二人であってほしいです。
20121010