5


写真に撮っておけば良かった、等と尚も笑っている。
「だって本当に怖かったんだもの! あ〜怒らせた、とか思って!」
私は手元にあるお手拭きを投げつけた。
「死ぬかと思ったわよっ!」
ついでに自分のハンカチやら文庫本まで投げた。
お手拭きは麟太郎に当たったが、ハンカチは手前に落ち、文庫本は麟太郎の脇を通ってカウンターの下に落ちた。
麟太郎は本を拾い上げて表面を少しはたき、ハンカチと一緒に私の前に置いてくれた。
「ごめん。だから、此処に引越して来てくれないか」
「私、ヤドカリ病だよ? 春になったら引越したくなるかも知れないよ」
「知ってる。でも、実家で22年暮らせてただろ」
「家事、苦手だし」
「ちゃんとやってたよ。俺より下手だというだけで」
「仕事、辞めたくないし」
「侑が店の手伝いしてる姿が思い浮かばない」
「嫁姑問題が起こるんじゃ……」
「親から、いつ結婚するんだとせっつかれてる」
「……」
「他には?」
「……思いつかない」
私は、テーブルの上に突っ伏した。
身体からヘナヘナと力が抜けて、頭も上手く働かない。
今の麟太郎の受け答えにも、色々引っかかるものはあるのだが、最早言い返す気力もない。
「侑、今日のお茶、もう1杯飲む?」
うん、と返事をすると、麟太郎は即お湯を沸かし始めた。
「今日は、これ――って言うか、最近ずっとこれだったけど」
私の手元に紅茶の空き箱を置く。
身体を伏せたまま、顔だけ横にして、パッケージを手に取って眺めてみた。
……英語だ。
国産の紅茶じゃないのかな。
箱の側面に印刷されたアルファベットの綴りをじっと見ていると、中に見覚えのある単語を見つけた。

――『Darjeeling』。

「ダージリン?!」
私は飛び起きた。
「国産じゃないの?!」
「侑がダージリンダージリン五月蝿いから」
「ええっ、だって……」
「こういう香ばしくて甘い奴もあるんだよ」
「……そうなんだ」
私はパッケージをまじまじと見て、呟いた。
「バレンタインの日からずっとこればかり出してたから、もしかしたら気づくかと思ったんだけど」
笑顔の中に、ほんの少し、意地の悪い光が覗く。
……嫌な予感。
まさか、今まで国産紅茶ばかり飲ませていたのって、この紅茶をダージリンだと認識させないようにする為じゃないだろうか。
わざと似たようなものばかり飲ませて、私の頭に国産紅茶の味をインプットさせて。
「私がダージリンを国産紅茶だと思い込んで飲んでるのを見て、楽しんでたんでしょう!」
涼やかな微笑み。
「全く腹黒いんだから!」
睨みつけたけれど、麟太郎は笑顔で返すばかりで、何も言わない。
私は諦めて横を向いた。
暫くして、BGMの止まった静かな店内に、お湯を注ぐ音が響いた。
同時に、香ばしく甘い香りが立ち込める。
ティーコジーをポットに被せて、麟太郎は言った。
「あと、5分」
そして、後片付けをするべく、忙しく動き始めた。
私はぼんやりと奥の棚に飾られている幾つかのカップを眺めた。
……高いんだろうな、あれ。
決して使われることのないティーカップ。
自分で買ったのか貰ったのかは定かではないが。
以前、何であれは使わないの、と聞いてみたことがあった。
その時、麟太郎が言ったのは。
「小さいから」
いつもお店で提供されるカップと比べたら、やっぱり少し小さかった。
「同じ1杯なら、大きい方がいい」
その一言に、ちょっと感動したのを覚えている。
その当人はいつの間にか戻って来て、出来上がった紅茶をカップに注いでいる。
「……どうぞ」
「ありがとう」
目の前に置かれたカップを手に取り、口をつける。
甘い香りが立ち込める。
お茶を口に含めば、その香りが鼻から抜けて行く。
「……美味しいね」
私がそう言うと。
麟太郎は、本当に嬉しそうな顔をした。



「嫁に行くって本当かっ!」
――またまた数日後。
《猫の杜》に来た私の姿を見るなり、永野君が言った。
「うん。何とか買い手がついた」
「買い手って、あのね……」
モノじゃないんだから、と永野君が呆れている。
「くっそ〜。ラーメンに負けた……」
「何言ってるんだか。最近また彼女が出来たくせに」
私が言い返すと、永野君は目を丸くした。
「何だそれ」
「リンに聞いた」
その言葉を聞くなり、永野君はカウンターの中で作業しているマスターの方に向き直った。
「リン! 何でお前はこう何でもベラベラ委員長に話すんだよ」
「別にいいだろ、本当なんだから」
「俺は委員長にはあまり知られたくないの!」
「何で私は駄目なのよ?」
私がぼそっと呟くと、麟太郎が言った。
「……だから嫁に行くのが遅れるんだよ」
「そーそー。この神経のなさ。全く、委員長を嫁に貰う旦那の顔が見てみたいよな」
……目の前にいますけど。
「式とか決まってんの?」
「全然。私が引っ越すだけ」




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