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いかないで。
ぼくを、おいていかないで。
いいこにしてるから。
「おかしかって!」っていわないから。

だからおいていかないで。

……おかあさん。



ハッとして寿(ひさし)は飛び起きた。
昔の、夢。
母親がクリスマス・イブの夜に出て行った時の夢。
恩師でもあった昔の男が忘れられず、不倫の末に子供を置いて出て行った母親。
出て行くなら、俺が寝てる間に出て行けば良かったんだ。
寿はそう思う。
あれ以来、寿はクリスマスが苦手だ。
誰かとクリスマスを過ごすというのも出来ない。
それどころか。
生まれてこのかた、特定の相手というのがいた試しがない。
友人とも浅い付き合いしかしたくない。
傷つきたくない。
大切な人からは、いつか捨てられてしまうから。



「いらっしゃいませ!」
バイト先で、寿は元気良く声を張り上げる。
イブの日ともなれば、店は混み合う。
その代わり、時給は普段よりもいい。
寿は志願してバイトに入った。
夜に予定があること筈もない。
こんな日はバイトで気を紛らわせた方がいい。
街に溢れるカップルを見るとムカつくが、店の客ともなれば、笑顔で接することが出来る。
客の波が途切れた直後。
杖をついた初老の男性が女性に付き添われて店にやって来た。
「いらっしゃいませ!」
そう、声を張り上げた時。
付き添いの女性が顔を上げるなり、顔の色が真っ青になった。
それを見た男性も呆然と寿の姿を見た。
まるで、見てはいけないものを見たかのように。
その瞬間。
寿の身体に震えが走った。
何故、分かったのだろう。
家に写真は1枚もない。
記憶も曖昧なのに。
「……かあ、さん」
店員の立場も忘れ、寿は喉の奥で呟いた。



「こちらでお召し上がりでしょうか?」
我に帰るのは寿が早かった。
男性はゆらりと目を上げた。
そして、寿の視線に、しっかりとした声で言った。
「食べていきます」
付き添いの方は、ビクッと身体を震わせたが、男性は寿に向かって穏やかに微笑んだ。
「有難うございます」
寿は店員の仮面を被り、トレイとトングを手に取った。
男性は、静かにショーケースを見やると、口を開いた。
「この一番左のやつを一つと……香織はどうする?」
「その下の……」
「その下のやつを一つ」
寿はトレイに商品を並べ、ショーケースの上に置いた。
「こちらでよろしいでしょうか?」
男性が頷くのを見て、寿は尚も言葉を紡ぐ。
「御一緒にお飲み物は如何でしょうか?」
「珈琲とカフェオレを下さい」
「畏まりました」
手の空いている同僚が、珈琲とカフェオレの準備をしているのを横目で確認してから、寿は言った。
「では、お会計をさせて頂きます」
商品の名前を唱えながらレジを打ち。
「934円でございます」
寿の言葉に男性は振り返り、母に財布を出すように促した。
母は慌てて財布を取り出し、震える手で千円札をショーケースの上に置いた。
寿はお金を受け取りながら、尋ねた。
「お客様、ポイントカードはお持ちでしょうか?」
「いえ……」
小さな声。
「お作りしてもよろしいですか?」
「はい……」
「畏まりました」
寿は真新しいカードを機械に差し込んだ。
「1000円、お預かり致します」
レジを操作し、お釣りを出す。
「66円とカードとレシートのお返しでございます」
差し出された手は、尚も震えていた。
寿はお釣り、カードとレシートの順にゆっくりと手渡した。
母が財布を鞄にしまうのを確認してから、寿は言った。
「商品はこちらでお持ち致します」
同僚が用意してくれた珈琲とカフェオレと空いた皿とフォークがのったトレイに、素早く商品を移して、寿は2人を追いかける。
男性を一番近い席に座らせた母が、自分も席についたところで、寿はそっとテーブルにトレイを置いた。
「珈琲とカフェオレはお代わり御自由となっております。ごゆっくりお召し上がり下さいませ」
「有難う」
寿は男性の顔を見てから一礼して、またカウンターの中に戻る。
母の顔は、見なかった。



同僚が珈琲のお代わりサービスで客席を回っている間に、寿はショーケースの中の整理をする。
先程の客の波で、かなり商品は減っていた。
ショーケースと奥を行き来して、商品の補充をする。
……何でいきなり目の前に現れやがった。
あの日から、家の中では母親の話は禁句だった。
母はいなかったことにされ、写真は寿の知らないところで一つ残らず破棄された。
家庭内でその名が話題にのぼることはあり得なかった。
無理もない。
経緯が経緯だ。
それでも、口の軽い大人の話を耳にする機会は何度かあって、それで、母親が高校時代の恩師と不倫していたことを知ったのだった。
……教師が不倫して、よく教壇に立ってられるもんだよな。
思春期の頃、よく担任の男性教師につっかかっていたのは、そんな思いがあったからだ。
寿は心を殺して、ひたすら商品の補充に没頭した。



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