3


『鬼平』は借りられなかったが、『藤枝梅安』は面白かった。夢中になって読んだ。
夢中になり過ぎた、と気がついたのは日が高く昇った後だった。
一限から授業があるのに目が覚めたのは十時四十五分。
ばたばたと支度をして玄関に向かうと、物音を聞きつけてやって来た母には散々小言を言われ、私はどうして起きられないんだとぶつぶつ呟きながら自己嫌悪に陥った。
午前の授業は全滅だ。午後から出るしかない。
私は慌てて自転車に飛び乗り、駅に向かった。
駐輪場に自転車を置き、駅のコンビニでお茶とお握りを買って電車に駆け込む。
何て日だろう。
昨日といい、今日といい、星の廻りが悪いんだろうか。ついてない。
神様は不公平だ。
何もしていなくても空からパンが降ってくる人もいるのに。
容姿は人並み以下で社交性に欠け、運動神経もなく、頭がそれほどいい訳でもないし、お金持ちでもない。
気を許した相手にはノート呼ばわりだ。単なる道具なのだ。私は人を見る目も持っていないのだ。
何でこうなるんだろう。前世で何かしたんだろうか。
私は電車の扉に寄りかかって溜息をついた。


「神谷さん」
友人三人に心配されつつ午後から授業を受け、再び帰りの電車に乗って地元の駅に着き、図書館に足を向けようとした直後。
顔を上げると目の前に狩野君が立っていた。
…どうしてこうなる。
よりにもよって、こいつとは。
怒りが沸々と沸いてきていたのだが、小心者の私はぐっと堪えた。
「もしかして図書館行くの?」
「…本を返しに」
鞄の中には『藤枝梅安』が入っていた。
「俺も返しに行くんだ」
「…昨日の『鬼平』?」
「そう」
「読むの速くない? 昨日借りたばかりなのに」
確か、十冊も。
「一気に読むって言ったでしょ。帰ってからずっと読んでたんだよ」
それでもそんなに速く読めるものなのか。私だって速い方だと言われるけれど、比べ物にならない速さだ。
落ち込むと同時にますます怒りが沸いて来た。
どうあがいても、かなわない。悔しくて唇を噛み締めた。
狩野君は狩野君。私は私。そう思っても、悔しくて仕方ない。そんな感情を無理矢理ねじ伏せて、狩野君の話に適当に相槌を打っていた。


女子の間で、矢口さんが狩野君に告白して振られたらしい、という噂が駆け巡ったのは、数日後のことだった。
有り得ない、と誰もが言っていた。
昼休み。
友人三人とお昼御飯を食べていた私のところへ、矢口さんとその取り巻きがやって来た。
話がある、と言う。
学食の裏まで来ると、矢口さんが口を開いた。
「神谷さん、狩野君と付き合ってるの?」
付き合ってない、と私は即答した。訳を聞いてみると、一緒に帰って行く姿を見たと言う。
…だから嫌だったんだ、一緒に帰るの。誤解を招くばかりでなく、身の危険まで生じる。
学校から駅まで向かう道はひとつだし、たまたま一緒になっただけだ、と私は矢口さんに言った。
誤解を解き、友人三人の元に戻って来ると、皆心配そうな顔をして待っていた。呼び出された理由を説明すると、美弥ちゃんが言った。
「災難だったね」
本当に災難だ。厄介事に巻き込まれるのは御免こうむる。
私は箸を取り、食事を再開した。
全く、どうしてこんなことでお昼を中断しなきゃいけないんだ、とお腹の中で毒づきながら。


午後の授業が終わり、友人三人とは駅で別れ、私は帰宅の途についた。
地元の駅前の本屋に寄り、古本屋に寄り、CD屋に寄る。
古本屋で百円の本を二冊買った。シャーロック・ホームズのパロディー本だ。
家に帰って読むのを楽しみに駐輪場へと歩いて行くと、その入口で待ち構えていたのは顔を合わせたくない人物だった。
「…やっと会えた」
顔なら毎日見ているけど。
私は即座にお腹の中で毒づいたが、狩野君は私の行く手に立ち塞がった。
「神谷さん、最近冷たいからさ」
「そう?」
目を合わせないようにはしてたけど。
「ちょっと、お茶しない?」
「明日の宿題が辛いから帰る」
私は狩野君の横を通り過ぎようとした。
「もしかして自販機のところで鈴木や宮部(みやべ)と一緒に話してたの聞いてた?」
「…別に」
ノート呼ばわりされたのはしっかり聞いたけど。
「俺、神谷さんのこと、都合のいいノートだと思ってないから」
思わず、振り返った。
「…やっぱり、聞いてたんだ」
狩野君は苦笑いした。
「あの後、あいつらにちゃんと否定したんだよ。ノートじゃないって」
「…そう、なんだ」
「授業の前に自販機のところで見た気がしたし、何か神谷さん冷たいからさあ、聞かれたかなとは思ったんだけど、目も合わせてくれないし、話、出来なかったから」
「…そう」
「俺、神谷さんのこと好きだから」
「……」
「だから、他に好きな人がいるって矢口に断った」


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