4

ぽつりと呟くように言うと、彼は腕を伸ばして、私の頭を撫でてくれた。
「俺がゴキブリに怯える気持ちが分かっただろ」
「それは無理」
「雷に置き換えろよ」
「全然違うと思う」
「苦手なものには違いないだろ」
「いつもは平気だもん」
「建物の中にいるからだろ」
「外でも大丈夫な時は大丈夫だもん」
「嘘つけ」
「……ゴキブリなんか歩いてたって命に別状ないじゃない」
「死ぬから、普通に」
「アナタだけでしょ、そんなの」
「奴等を甘く見ていると怪我するぞ」
「怪我? どうやったら怪我するのよ」
あんなに小さいのに、と言った途端に窓の外が光った。
――来る。
思わず身構え、遠くで鳴っている音にビクリと身体を震わせると、狩野君が笑った。
「雷もいいなあ。佳乃が大人しくなる」
「1回雷に打たれて来れば」
「震える声で言われても説得力ないなあ」
……うるさい。
私は目の前の男を睨みつけつつ、残りのお茶を飲み込んだ。
「何でしたら隣に座りましょうか? 佳乃さん」
「結構です」
「そんな強がらなくても」
……絶対嫌だ。
場所をわきまえて欲しい。
新しいお茶貰って来る、と言って私は立ち上がった。
狩野君のグラスは氷水になっている。
烏龍茶でいいかと問えば、私と同じものがいいと言う。
――カモミール?
いぶかしげな目を向けると、狩野君はこう言い直した。
「佳乃が飲みたいやつ持って来て」
……私が飲みたいもの?
私は自分のカップとソーサーを持ってドリンクバーに向かった。
あの男には、いっそのことティーポットに色んなお茶を混ぜこぜにして淹れてやろうか、とも思う。
……けれど。
私は自分のカップにカフェラテを注ぎ、新しいカップにも同じものを注いだ。
トレイにカフェラテが入った2組のカップとソーサーが並ぶ。
ゆっくりと席に戻る。
トレイをテーブルに置くなり、狩野君が自分に近い方のカップとソーサーを取った。
「あ、そっちは……!」
止める間もなく、彼はカモミールティーが入っていた方のカップに口をつけてしまった。
「……何?」
「そっち、私の」
「同じでしょ?」
「カモミールティーが入ってたカップ」
「言われなきゃ分かんないよ」
……分かるから、普通。
私は新しい方を差し出した。
「交換して」
「いいよ別に」
「私は嫌」
「俺は佳乃の使用済みカップの方がいいの」
「変態」
「変態だもん」
……何を言っても無駄か。
溜息をついて、席につき、諦めて新しいカップとソーサーを取った。
「雨、やんだみたいだよ」
狩野君の言葉につられて、窓の外を見た。
通り過ぎる人達は傘をさしてはいなかった。
――けれど。
すっかり暗くなった空は、まだ時折光っている。
私が顔をしかめていると、狩野君がまた笑った。
「送って行くから大丈夫だよ」
断ろうと口を開きかけたが、雷の恐怖が蘇り、思わずコクリと頷いた。
すると、また。
前から腕が伸びて来て、大きな手が私の頭を撫でた。
「……ありがとう」
私が小さな声で呟くと、いいよ別に、という言葉と――共に。
「佳乃ちゃ〜ん、耳赤いよ〜」
「それは余計!」
思わず言い返してしまったけれど、本当に余計な一言だと思う。



――翌日。
「……あ」
「うわああああっ!」
足元を茶色いものが通り過ぎた途端、隣がいなくなった。
「おはよう、佳乃ちゃん」
「おはよう」
「昨日の雨、凄かったね〜」
「酷かったよね」
入れ替わりにやって来たのは、美弥ちゃん。
「ところで、どうしたの? 狩野君」
「あ、ちょっとね……」
振り返ると、狩野君は遥か後方で須美ちゃんと矢口さんに「通行の邪魔」だの何だの言われている。
……放っておこう。
「佳乃ちゃん、此処、どうやった?」
美弥ちゃんがノートを開いて問題の箇所を指差した。
「ええと……」
私も自分のノートを開き、美弥ちゃんと答えを見比べる。
「あ……同じだね」
「やっぱりこうなるよね」
「狩野君は……やってないか」
「きっと当てられたらその場でやるんじゃない?」
……今はそれどころではないだろうし。
「佳乃っ! ノート見せてっ!」
こっちに持って来てと言わんばかりに叫ぶのが聞こえた。
振り返る。
「いいけど……見に来るなら」
「そっちは嫌だっ!」
「じゃあ他の人に見せて貰って」
「恩を仇で返すのか〜っ!」
薄情だの何だの後ろで喚いているのを無視して、私は美弥ちゃんの隣に腰かけた。
「いいの? 佳乃ちゃん」
美弥ちゃんが心配そうな顔をしたが、いいよ放っておけば、と返した。
……ゴキブリがいるからこちらに来られないなんて、言いたくもない。
大体、ゴキブリは此処を通っただけで今はもういないし、そっちに移動しないとも限らないし。
そう呑気に考えていると。
「おはよ〜」
夏奈(かな)ちゃんがチャイムと共に後ろの席に滑り込んで来て、同時に教室の前の扉が開いた。
「最近、あの先生来るの早くない?」
夏奈ちゃんの言葉に頷き、私はさっき足元を通った茶色いもののことを考えた。
……あれ、また狩野君の足元に行ったら面白いのになあ。
そう思っていると、教室の廊下側の方が騒がしくなった。
……あっちに行ったのか。
何だ、つまらない。
でも。
今頃、後ろの方で逃げる準備でもしているのだろうか。
そう思うと、何やら可笑しくなった。
まもなく教室は静かになり。
私は先生の話に耳を傾けた。





(終わり)






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