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誰だって苦手なものはある、と思う。
美弥(みや)ちゃんは蛾や蜂が苦手だし、夏奈(かな)ちゃんはセロリや香菜が駄目だし、須美(すみ)ちゃんは発泡スチロールの擦れる音だけは許せないと言うし、宮部(みやべ)君は玩具であっても蛇を見たら逃げるらしいし、鈴木君は納豆が食べられない。
私は――人混みは嫌いだけど混んでる電車やバスは大丈夫だし、行列も駄目だけど並ばなければいけない時は並んで待てる。
誰しも苦手なものはある。
けれど、それが共感出来るかどうかは別問題だと思う。



――授業の合間の空き時間。
私は図書館で宿題に追われていた。
あまり頭は良くないので、早いうちから手をつけておかないとついていけないのだ。
閲覧席の一角、大きなテーブルの端に陣取り、本や辞書のコピーを前にノートをとっていると。
……あれ? 今、目の前を何か通ったような。
「うわああああっ!」
私の隣にべったりひっついて座っていた人間は、大声を出して椅子から飛び上がり、急いで席から遠ざかった。
「どうしたの?」
私は思わず振り返って尋ねた。
「今、いただろっ!」
「何が?」
「茶色い奴が!」
「は?」
「机の上!」
「え?」
「目の前をだーっと歩いてっただろ!」
「確かに何か通ったかも知れないけど」
あんまりよく見なかったと私が言うと、そいつが言った。
「何で平気なんだよ、佳乃(よしの)!」
「何が?」
「ゴキブリだよゴキブリ!」
「へ?」
自分の席の周りをよく見てみたが、それらしきものはない。
「もういないよ」
「さっきはいたんだよ!」
……はあ、そうですか。
彼は恐る恐る、足元をよく見ながら席に戻って来た。
狩野雅明(かりの・まさあき)。
持って生まれた容姿と、身体能力に優れた頭脳、社会性も極めて高く、よってその適応能力の高さから何処でも一定以上の評価を得られる、一言で言えば「嫌な奴」である。
それが何故か私の彼氏……らしい。
彼氏、だと言われる。
彼氏、なんだろうと思う。
思うけど。
「佳乃、ゴキブリ平気なんだ?」
「あんまり好きじゃないけど、家だと新聞紙とか雑誌とか丸めて叩き殺したりするよ」
「何でそんな勿体ないことするんだよ」
「……勿体ない?」
「だってゴキブリ殺した雑誌なんかもう読めないだろ!」
「何で?」
「何でって……ゴキブリ触ったやつは駄目だろ!」
「殺虫剤かかってたら危ないけど……ちょっと拭けば」
「あり得ないって!」
……アナタの過剰な反応があり得ないから。
私はこっそり溜息をつく。
「じゃあ、か――雅明の家でゴキブリが出たら誰が退治するの?」
「母親だよ」
「お母さんいない時は?」
「姉貴」
「お姉さんもいない時は?」
「父親」
「お父さんもいない時は?」
「兄貴」
「お兄さんもいない時は?」
「逃げる」
「は?」
「家から逃げれば追いかけて来ないから」
「はあ……」
――こんな奴が彼氏だなんて。
第一、お姉さんはともかくお兄さんは家を出てる筈だし。
逃げる、っていう答えも理解出来ない。
狩野君は、暫くの間、如何に自分がゴキブリを嫌いかということを言いまくっていたが、私は適当に返事をしつつ、宿題に戻った。
――ところが。
「佳乃」
「何?」
「後で苦しいやつ1回ね」
にやりと笑って言う。
……何故そういう所は聞き逃さない。
付き合っている以上、下の名前で呼ぶよう言われ続けているのだが、私はつい「狩野君」と言いそうになってしまい、結果、「か――雅明」と呼びかけてしまう。
その罰ゲームというのが、その――キスなのだが、最近痴漢紛いなことも多くて……困る。
――でも。
今日の私は違う。
……成程、ゴキブリか。
コイツの弱味を握ったからには、それを有効利用しないと。
私は時計を見て静かに机の上を片付け、ノートやコピーを鞄にしまってから、言った。
「あ、ゴキブリ!」
「ええっ?!」
狩野君はまたもや椅子から降りて後ずさった。
「ど、何処っ?!」
彼がパニックになっている間に、私は知らん顔して荷物を手に図書館を後にした。
……いつもいつも自分の思う通りになると思ったら大間違いだ。
教室に行く途中、掲示を見たら授業は「休講」とあったので、私はそのまま学校を出た。
駅に向かって歩きながら、面倒なので携帯の電源も切った。
……今日は、平和だ。
私はにんまり笑った。



電車に乗る。
混んではいないが、乗った車両が悪かったのか、シートに座る余地は殆どない。
それでも空いている所を見つけて腰を下ろした。
長時間乗る訳ではないが、少し眠りたかったのだ。
鞄を抱えてうとうとしていると、次の駅で大きな荷物を背負ったお父さんと小学生らしき子供が乗って来た。
何処かに行った帰り、といった感じだ。
学校が休みだったのかな、等と呑気に考えていると、彼らは私の席の近くにやって来た。
すると。



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