庭の桜





 カチ、カチ、カチ、カチ…。
 静まりかえっている部屋の中、小さな置き時計の動く音が聞こえます。
 奏(かなで)さんはベッドの上で左の耳を枕に押しつけ、右の耳を天井に向けてその音ばかりを聞いています。
 カチ、カチ、カチ、カチ…。
 窓から見える桜の木はまだ蕾。
 きっと今年も奏さんは此処から花を眺めることになります。
 いつの頃からでしょう、奏さんが一日のうちの大半をこうして過ごすようになったのは。
 その昔。
 奏さんは朝から晩まで洋菓子店で働いていました。
 腕の良いパティシエの元で、職人の道を歩いていました。
 其処ではある程度のことを任せられる程の立場になっていました。
 いずれは自分のお店を持ちたい。
 そんな夢も抱いていました。
 それが、今はどうでしょう。
 一日中布団をかぶって過ごす生活。
 たまに布団から顔を出して、窓から見える景色を眺める、そんな生活。
 このままじゃいけない。
 分かっているのです。
 でも、布団から出られないのです。
 そして今年もおそらく。
 桜の花を布団から顔を出して眺めることになります。




 豊(ゆたか)さんは、庭に出て、桜の木を見上げました。
 蕾が少し大きくなったかな。
 もうすぐ、咲き始めるかな。
 そんなことを思いながら、後ろを振り返ります。
 桜の木の後ろに、奏さんの部屋があります。
 今年も、部屋の中から見るのかな。
 豊さんは思います。
 この家に二人で暮らすようになって、奏さんが一番気に入ったものがこの桜の木でした。
 桜の咲く時期に仕事がお休みの時は、奏さんが桜をイメージしたお菓子を作り、縁側で二人、お花見をしたものでした。
 それが、今は。
 奏さんが庭に出ることはありません。
 カーテンだけは豊さんが朝開けることにしていますが、部屋の窓が開かれることはありません。
 風も、草や木の匂いも感じることはないのです。
 それどころか。
 奏さんの笑顔さえ暫く見ていません。
 たまにベッドから覗かせる顔は生気がなく、土気色です。
 明るくて良く笑いパワフルに動き回っていた昔の奏さんが嘘のようです。
 どうしたものかな。
 豊さんは頭を振って、また桜の木を眺めます。




 カチ、カチ、カチ、カチ…。
 窓に豊さんの後ろ姿が写っています。
 今日は仕事がお休みなのか。
 奏さんはそう思いました。
 豊さんは、起きて来いとかせめて家事をしろとか仕事に行けとか、そういうことは言いません。
 最初はそんなことも言っていましたが、いつの間にか言わなくなりました。
 布団から出られない奏さんに呆れたのかも知れません。
 言っても無駄だと思ったのかも知れません。
 諦めたのかも知れません。
 奏さんは目から溢れた涙をそっとぬぐいました。
 動けない自分。
 役に立たない自分。
 どうしようもない自分。
 そんな自分に一番腹を立てているのは奏さん自身です。
 肉体的に問題がある訳ではありません。
 でも、布団から出られないのです。
 音もなく、涙は枕を濡らします。
 ただ、豊さんから貰った小さな時計の音だけが、部屋に響きます。




 豊さんは家の中に戻って、冷蔵庫の中からハムや卵や葱を取り出しました。
 そろそろ、お昼御飯です。
 頭の中に浮かんだメニューは、炒飯と朝の残りのお味噌汁です。
 …あいつ、食べるかな?
 奏さんはあまり御飯を食べません。
 今日も朝はお茶だけで、御飯は食べていません。
 でも、日も高くなったことだし、一応声をかけてみることにしました。
「…奏」
 呼びかけて、そっと襖を開けました。
「お昼御飯、どうする? 炒飯となめこの味噌汁だけど」
「…少し、食べる」
 布団の中から小さな声が聞こえました。
 分かった、と言って、豊さんは台所に戻りました。
 卵はもう一つ追加です。
 ハムと葱を刻み、卵を溶き、フライパンを火にかけてあれこれ炒め始めます。
 奏さんが元気な頃も、豊さんは度々台所に立っていたので、料理は苦ではありません。ただ、片付けるのが億劫なだけです。
 手早く炒飯を作り、お味噌汁を温めて、盛り付けます。
 そして、茶の間にある卓袱台を奏さんの寝ている部屋に持ち込みました。




 トントントントン…。
 細く開いた襖の向こうから、包丁の音が聞こえてきました。
 そのうち、何かを炒める音が聞こえ、美味しそうな匂いも漂って来ます。
 奏さんは、布団からそっと顔を出しました。
 調理の音が止むと、今度は豊さんが近づいて来る音が聞こえました。
 豊さんは襖を大きく開けると、卓袱台を部屋に置きました。他に電気ポットも持ち込み、料理を並べました。
「御飯だよ」
「…うん」
 奏さんはゆっくり起き上がり、ベッドから出て卓袱台の前に座りました。
「…泣いてたの?」
 豊さんが顔を覗き込んで、尋ねました。
 奏さんは兎の目になっていたのです。
 仕方がないので頷きました。
「…頂きます」
 奏さんは小さな声でそう言い、箸を取りました。
 パラパラの炒飯と湯気の立っているお味噌汁。
 奏さんはお味噌汁から口をつけました。
「…美味しい」
「そりゃそうでしょう」
 豊さんは炒飯を食べながら言いました。
「…桜、今年は早そうだな」
「そう?」
「お前の誕生日の頃には咲いてるよ、きっと」
「…そうかな」
「誕生日プレゼント、何がいい?」
「…ラジオ」
「ラジオ? ラジカセあるじゃん」
「壊れてる」
「そうだっけ?」
 豊さんは首を傾げました。
 ラジカセは、きっと壊れているのでしょう。
 でも。
 ラジオが欲しい、とは。
「何でラジオ?」
「…J-WAVEが聞きたい」
 J-WAVE。
 豊さんははっとしました。
 奏さんはFMラジオを聞きながら仕事をしていたのです。
 思わず箸が止まりました。
 奏さんは黙々と食べ続けています。
 その様子をじっと見つめながら思いました。
 もしかしたら、今年は縁側で花見が出来るかも知れない。
 お茶一杯でも飲めるかも知れない。
 外の空気に当たれるかも知れない。
 期待は禁物なのは分かっています。
 でも。
 もしかしたら。
 そう思わずにはいられません。
「ラジオ、だな」
「うん」
「安いのでいい?」
「うん」
 なるべく壊れにくくて可愛いデザインのものを買って来よう、と豊さんは思いました。
 そしていつか。
 奏さんの作ったお菓子を肴に縁側でお花見を。
 そんな日も、夢ではないでしょう。



 桜は、もうすぐ花開きます。








(終わり)






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