尻尾は3本。
帰宅してドアを開けるなり、もわあっとした熱気が襲いかかった。
急いで家中の窓という窓を開け放ち、冷房と扇風機を回す。
汗だくの衣服を浴衣に変えて、冷蔵庫の麦茶をコップで2杯飲んでから、夕飯の支度にとりかかる。
みー。
雨には弱いが暑さには強い三毛猫のぬいぐるみが何処からともかくやって来て、足元で鳴いた。
奴は、きっと昼間は文字通り「死んだように」眠っていたのだろう。
最近、夜な夜な2体の市松人形と遊んでいたから、ぬいぐるみはすっかり昼夜逆転していた。
──全くもって、騒がしい人形達だった。
私はつくづくそう思う。
2人共、夜はずっとぺちゃくちゃ喋りまくっていて、煩いこと極まりなく、うちの生きてるぬいぐるみと遊ぶだけでなく、私の自転車の籠に勝手に入ってドライブを楽しんだりする、とんでもない人形達である。
それが夜な夜な我が家に遊びに来るので、私はすっかり疲れ果てていた。
幸い、市松人形は持ち主達と共に旅行に出かけ、我が家にまた平和な夜が戻りつつあった。
──と、この時は思っていたのだが。
数日後。
お盆休みを利用して、私も大きなリュック1つを背負って旅行に出かけた。
旅先で荷をほどいたら、ひょっこり奴が顔を出したのには腰を抜かした。
……家に置いて来た筈なのに。
結局、ぬいぐるみを連れて旅をすることになり、息抜きにもならずに帰宅した。
翌日、近所の隠居宅にぬいぐるみ(勝手について来た)と共に土産を届けに行った。
こんにちは〜、と勝手知ったる何とやらで庭に回ると、何やら音楽が聞こえて来る。
しかも、どたばたと物音までする。
縁側からヒョイと覗き込むと、御隠居と新妻が楽しそうに踊っている。
「おう、帰って来たんか」
「いらっしゃいませ」
私達に気づいて2人は踊るのをやめて縁側に出て来た。
「……何かあるんですか?」
土産を差し出しながら尋ねると、御隠居が言った。
「何かって何や?」
「だから、膝だか腰だか痛いと言ってた人が何で踊っているのかと」
「踊ったらあかんか?」
「悪くはないですけど」
「なら別にええやろ」
押し問答である。
「踊ってる訳くらい教えて下さいよ」
「……私がお願いしたんです」
奥から麦茶を持って来てくれた新妻の紺ちゃんが言った。
「テレビで、フォークダンスの話をタレントさんがしていて、フォークダンスって何だろう、と思ったものですから」
「はあ……」
御隠居はバツが悪いのか、横を向いて麦茶を飲んでいる。
「それでオクラホマミキサーですか」
「先程はマイムマイムでした」
「……」
私は哀れむような目で御隠居を見た。
「御隠居様、あんまり無理はしない方が……」
「やかましいっ!」
「歳も歳ですし……」
「28!」
「26じゃあなかったんですか」
「あほな作者が間違えたんや!」
「偽ってる時点で、26も28も大して変わらないような気が……」
「あほっ! 2センチも違うやろっ! 大違いやっ!」
「靴のサイズでしたら、爪先を切り開くなり綿を詰めるなりして調整すればいいかと思いますが」
「どっちか言うたら踵を切る方がいいんちゃうか?」
「どうせなら、あの古い靴を捨てて新しく靴を買ったらどうです」
「古いものを直しながら使うのがええんや」
「ああ、人も物もリユースは大事ですね」
「誰かのように、使いもせんのに面白がって何でもかんでも買うよりはな」
「いつかは使うかも知れないじゃないですか」
「寺でもないのに木魚は使わんやろ」
「あれはいい音がするんです!」
くすくす、と笑う声に私と御隠居は思わず振り返った。
「水羊羹をお人形さん達のお宅から頂いたんです。宜しかったら」
「あ、ああ……」
「頂きます……」
すっかり大人しくなった我々を見て、ぬいぐるみはパタパタ尻尾を振った。
……笑いやがった、コイツ。
睨んだところで効かないけれど。
──しかも。
「ああっ!!」
ぼーっとしていたら羊羹は奴に食われてしまった。
「ちょっと! 菓子じゃなくて麦茶を飲めってば!」
「天罰やな」
御隠居がしれっとして羊羹を口に放り込み、紺ちゃんは申し訳なさそうに言った。
「すみません、羊羹はこれで最後だったんです……」
……ついてない。
帰宅すると、玄関の前に本物の三毛猫が行儀よく座って我々を待っていた。
破壊神──じゃなかった、目下狩りに夢中になっているらしいお方の猫である。
にゃあ助という。
側近のナナさんの姿はない。
独りで来たの、と声をかけると、にゃあと鳴いた。
そして。
穏やかに尻尾を振ってみせた猫が、いきなり毛を逆立てて威嚇を始めた。
「ちょっと待って、にゃあ助! 誰もいないから!」
──にゃあっ!!
「きゃあああっ!」
喰われる、と咄嗟に目を瞑ったのだが、痛みはない。
……あれ?
恐る恐る目を開けると、足元でぬいぐるみが猫に捕まっていた。
奴とにゃあ助は仲がいい。
喧嘩はたまにするけれど、それだって近くの茶碗が割れるくらいのもので、大したことはない。
なのに、にゃあ助は取り押さえた奴に対して警戒している。
……何だろう?
奴をよく観察してみると、尻尾が――2本に割れているではないか。
「ね、猫又っ!?」
ぬいぐるみが猫又になるなんて聞いたことない。
そんなにぬいぐるみが長生きするとも思えないし。
みー。
奴は私に助けを求めるように、弱々しく鳴いた。
「で? うちに来たって訳?」
南国生まれのふみさんは、呆れた顔で私の腕の中を除き込んだ。
尻尾が2本に割れたぬいぐるみはすっかり大人しくなっている。
にゃあ助はふみさん宅の猫に遠慮したのか、飼い主にこのことを報告しに行ったのか、何処かへふらりと消えてしまった。
「御隠居には言わなかったの?」
「言いました、言いましたよ。でも──」
奴を見るなり隠居はげらげらと笑い出し、面白いからそのままにしとき、と言ったのである。
そりゃあ確かに面白いか面白くないかと言われたら面白いけど、奴が妖怪になるとまたややこしくなりそうだし。
「でも、紺ちゃんは何ともなかったんですよ」
御隠居の新妻の本来の姿は柴犬そっくりな狐だが、尻尾は1本で、それ以上増えてはいなかった。
「あんたのぬいぐるみだけ、2本に割れたの」
「そうみたいです」
「猫を猫又に変えるなんてどんな羊羹なんだろうねえ」
奴は猫じゃなくてぬいぐるみです、と言おうとしたが、ややこしいことになりそうなので言わずにおく。
座敷の奥には薄茶と白の毛色した猫さんが今日も我々を遠くから見ている。
ふみさん宅の猫さんは人見知りで猫見知りなのだ。
「それにしても、あんた食べなくて良かったねえ」
「はあ……確かに」
あの御隠居も紺ちゃん同様、食べても何ともないという事実はこれまたややこしいことになりそうなので言わずにおく。
「今日は仕事は……?」
「休みよ休み。カブも調子悪いしさ、丁度良かったかも」
本当は海を見に行こうと思ったんだけどね、とふみさんは言った。
「夕立来たら大変ですよ」
「確かにねえ。このところ毎日だしね」
今日も空には立派な入道雲が待ち構えている。
何となくバツが悪いのかも知れない。
「でもさ、私、尻尾を1つにする方法なんて知らないよ」
「いつぞやには8本にして下さったでしょう」
「……まあ、そんなこともあったけど」
ふみさんの移動手段は玄関先に停めてあるカブだ。
このカブで日本全国何処にでも行ってしまうのだが。
……怪しいんだよな、あれ。
ガソリン入れに行ってるの見たことないし、いつも移動時間はカブではあり得ないくらい短い。
例えば、ふみさんの口からはよく鹿児島の話が出て来るのだが、
『ほら、桜島だったら此処から20分くらいじゃない?』
……えーと。此処から鹿児島は飛行機で2時間です!
何度突っ込もうと思ったことか。
あまりに怖くてまだ言えてない。
──で、以前、奴が鹿児島に行ったふみさんを追いかけたことがあったのだ。
向こうでふみさんと会った奴は、ふみさんから色々お土産を頂いて意気揚々と帰宅したのだが、何故か尻尾が8本に増えていたのである。
「あんた、あの時どうしたの」
「何も。2日くらいで戻りましたから」
「じゃあ、今回もほっとけばいいじゃない」
「いや……あの方の猫にこれ以上暴れられても困るんで」
縁側に座り、麦茶を御馳走になる。
奴はお皿に注がれた麦茶には口をつけることなく、丸くなっている。
「あー、あの仔ね。遠くからは見たことあるんだけどね」
我が家では傍若無人に振る舞う凶暴な三毛猫だが、他所では大人しい猫だと思われている。
私がふみさん宅や御隠居宅に行く時は同行しないし。
意外と人見知りするのかも知れない。
「でも、何で尻尾が増えたんです?」
「さあ」
「さあ、って」
「とりあえず、羊羹は食べさせてないと思うよ」
「……」
「美術館のカフェでジュースとか、ドトールのジャーマンドッグとコーヒーとか? そんなもんよ」
「怪しげな市松人形から何か貰った、とかは?」
「そんなのないわよ。あとはサーターアンダギーは食べさせたけど」
ふみさんお得意のサーターアンダギー。
あの時、奴の首にくくりつけられていたお土産の1つだ。
「確かホットケーキミックスで作られたんですよね、あの時は」
「そうそう」
お宅でも御馳走になるが、ふみさんのサーターアンダギーは美味だ。
ふみさんにとっては気軽に作れるふるさとの味なのかも知れない。
「……お前、何で尻尾が増えたのよ」
奴に向かってボソッと呟くと、丸まったまま片耳だけをピンと立てた。
そんなの知らないよ、と言わんばかりに。
「そもそも、どうしてこの仔はあんたの家にいるの? 子供の頃からいる付喪神?」
「付喪神かどうかは知りませんが、来たのはここ何年かで──ゴミ捨て場にあったのを拾って来たんですよ、確か。それが居ついてるんですが」
「その前は何処にいたのかねえ」
「さあ……」
近所のゴミ捨て場だから、おそらくこの近辺の何処かの家にいたのだと思うのだが。
「篠崎さん家の省ちゃんのじゃないよねえ」
「省ちゃんはもう大学生ですし、小さい頃もぬいぐるみ好きじゃなかったと思いますよ」
それに、あの子のところにいるのは万年筆ですから、と続ける。
篠崎さんのお宅のおじいちゃんは最近施設で息を引き取った。
筆まめなおじいちゃんで、認知症になってからも頻繁に家族に手紙を書いている謎の人だった。
孫の省ちゃんはおじいちゃん愛用の万年筆を形見分けで貰ったのだが。
「あれも変な万年筆よねえ。省ちゃんにはよく喋るし手に持ったら勝手に文章書くんだから」
「万年筆が付喪神だったからって、奴まで篠崎さんのお宅にいたとは限らないでしょう」
「それはそうだけど」
そういえば。
省ちゃん、万年筆が鬱陶しいから捨てたらまた戻って来たって言ってたっけ。
捨てたら帰って来るっていうのは奴も同じで、面倒くさいよね、と言って2人して溜息をついたのを思い出した。
勿論、万年筆も奴もその場にいなかったから言えた訳だが。
「でも、そもそもぬいぐるみが猫又になるのがおかしいんですよ。猫が猫又になるっていうなら分かりますよ。ぬいぐるみのコイツが何で猫又になるのかが分かんないんですよねえ」
「実は本物の猫なんじゃないの?」
「中には綿とかスポンジみたいなものしか入ってないですよ」
「……見たの?」
「拾った時に少し中身が出ていたから縫ったんですよ」
「食べ物の干からびたやつとか入ってなかった?」
「ないですよ。何で食べられるのか謎ですけど」
と言うか、そもそも動くこと自体おかしいのだが。
最早、我々の感覚が麻痺しているのかも知れない。
「この仔、喋ってくれるといいのにね」
ふみさんが奴の方を見て呟いた。
みーみー鳴くだけでも五月蝿いのに、これで人間の言葉なんか喋ったらやってられない、と私は腹の中で考えた。
夢を見た。
奴の尻尾は更に割れて3つになっていた。
更に妖怪化が進んだと嘆く私に対して、奴は何だか楽しそうだった。
すれ違う人や犬や猫が振り返ったりギョッとした顔をしたりするのを尻目に、奴は堂々とモーゼの海を歩いて行く。
慌ててついて行くと、奴は振り返って私を見上げ、尻尾を3本ともピンと立ててみせた。
明日は、晴れ。
私はつい笑った。
ぬいぐるみのくせに。
いっぱしの猫を気取って。
猫の天気予報が当たるかどうかは定かではないし、大体奴はぬいぐるみだ。
でも。
尻尾1本の予報より、3本の予報の方が何だか当たるような気がする。
……いいんだ、これで。
何故か、そう思えた。
みー!
いつもの時間に猫パンチで叩き起こされ、更にその直後、目覚まし時計が暴れ出した。
……眠い。
みーみー!
目覚ましを止め、あと1時間寝かせて、と言ったら今度は引っかかれた。
……うう。
のろのろと起き上がって朝の支度にとりかかる。
みーみーみー!
腹が減った何か喰わせろ!
ごはんーごはんーごはんー!
こんな感じの鳴き声は私が奴の前に餌を出すまで続く。
……五月蝿い。
昨夜の残り御飯に茹でた野菜とキャットフードを混ぜたものを定位置に置くと、勢いよく食べ始めた。
……全く。
もう少しゆっくり食べなさいよ、と言っても聞く訳がない。
ぼんやり眺めていると、昨日と少々様子が違うような気がして、首をかしげた。
……あれ?
尻尾は、1本。
昨日は2本に割れていたのに、何故か戻っている。
いや、これが普通で当たり前なのだが。
……何で減った?
首をかしげていると、飲み物の催促があったので、空になった器に水を注いでやる。
みー。
「牛乳はありません。今日はお水で我慢して下さい」
みー。
奴はしぶしぶ水を飲み始めた。
牛乳といっても、水で薄めたものしかあげたことはないのだが、味がある飲み物には違いなく、奴は牛乳を欲しがる。
みー。
またもや奴は物欲しそうに私を見上げる。
今度は何だ?……あれか。
冷蔵庫の中のプリン。
或る有名店の美味しいプリン。
奴は私以上に家にある食べ物について熟知している。
牛乳のことを知らなかったのは、昨夜遅くに私がカフェオレを作って飲んだ時に奴が眠っていたというだけだ。
「おやつは後にしなさい」
どうせ、もう少ししたら凶暴な猫が遊びに来て、プリンを食べるのである。今食べたらプリンが余計になくなってしまう。
奴はくるりと回れ右をして茶の間を出て行った。本意ではないだろうが一応納得したらしい。
私は台所に戻り、マグカップに氷を入れ、やかんに入った出来たての熱い麦茶を注いだ。あっという間に氷は溶け、後からまた氷を3つばかり放り込み、茶の間に戻る。
軒下の風鈴が揺れた。
今日もまた猛暑とか酷暑といった一日になるのだろう。
にゃあ。
庭にいつもの三毛猫が姿を現し、それに気づいたらしい奴も茶の間に戻って来た。
縁側に出て、おはよう、と声をかけると三毛猫は側に寄って来てまた鳴いた。
好物のプリンの催促である。
「いつもあるって訳じゃないのに」
そう呟いて冷蔵庫のプリンを取りに行く。
猫と猫モドキは何故か食べ物──特にこのプリン──の有無についてのカンが非常に鋭い。
蓋を開けて目の前に置いてやると、2匹共猛烈な勢いで食べ始める。
……ゼイタクモノ。
私は麦茶を前に溜息をついた。
……人間様が麦茶なのに猫とぬいぐるみがプリンてどういうこと。
いつものことだが納得いかないけど。
……でも、2匹に家中荒らされるよりはプリンの方がまだマシだ。
そう、お腹の中で呟いた。
(終わり)
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