泡を眺める猫






 梅雨が明けた。
 朝は暑さで目が覚める。
 お腹が空いた、何か食わせろ、と鳴き喚く三毛猫のぬいぐるみを無視して、縁側から庭に出た。
 寝巻きのまま下駄をつっかけて水道の栓を捻り、干からびた地面に水を撒く。
 ホースの先端を指で潰し、何処まで水が届くかと放物線の先を目で追いかける。
 紅葉の木の向こう。
 梅の木の向こう。
 桜の木の向こう。
 蜜柑の木の向こう。
「うわぁっ!」
「え?」
 思わずホースを下げて声の聞こえた辺りに目をこらせば。
「ミルヒアイス……さん?」
「おはよう、ございます」
 八魔将筆頭ののっぽさんは、普段に輪をかけて水も滴るイイオトコに変身していた。



 着替えなど家にある訳がない。
 タオル代わりの手ぬぐいを渡しながら、近所の御隠居の所に行って借りて来ますと言ったけれど、すぐに乾くから大丈夫だと言われ、しかも濡れたまま家に上がるのも申し訳ないからと、庭で立ち話が始まった。
 上がりたくないのは、濡れたまま云々ではなくて縁側からおかしな空気を醸し出している奴のせいだろうと思ったが、黙って話を聞くことにした。
「古本市です」
「……はあ」
 あの気まぐれな歌舞伎町の女王――じゃなかった、魔王様は、人間とか動物とかバケモノなんかよりも本の方が遥かにお好きと聞いたことがあるが――そんな筈はないだろう。
 単に馴染みの方々と本を通じて遊びたいというだけで。
それが『古本まつり』なる大イベントになってしまうというのは不思議なのだが。
「場所は京都の――」
「やです」
「は?」
「夏の京都は嫌いです」
 ミルヒアイスさんは困ったような顔をした。
「はあ、そう言われましても……」
「あんな死ぬほど暑い所に何で行かねばならんのですか」
 古本市が比叡の山の中で行われるならともかく、平地では日射病とか熱射病でぶっ倒れること間違いない。
「何でと言われましても……決定事項ですから……」
「……」
 またか。またなのか。
「あの……ぬいぐるみ様にも御同行願いたいのですが……」
 ぬいぐるみ『様』?!
 奴に敬語?!
 振り返れば、奴は涼しい顔をして縁側で寝そべっている。
 異議はないらしい。
「……行く、みたいです」
 それは良かった、と言う言葉が妙にほっとしているように聞こえたのは気のせいではないだろう。
「暑いのは嫌いでしたか」
「好きではないです」
 寒ければ着ればいいが、暑いからといって皮を剥ぐ訳にはいかない。
「分かりました。暑さをしのぐ方法を考えておきます」



「……暑さをしのぐ方法って、これですか」
「これが一番良いと主が言ったものですから」
 数日後。我々が連れて来られたのはまたもや元・小学校。
 その、理科室。
「またお会いしましたね」
 ムカつくわ〜、その一言!
 いつもの女性2人の混沌御用達エスティシャン。
 制服がピンクなのも腹が立つ。
「インドの方なら日本人のあなたよりは暑さに強いと思いまして」
「何でそうなる?!」
「いやあの、主が、あなたのインドからの留学生という姿を事の外気に入ったようで――」
「は?!」
「あなたも御存知の通り、主は美しいものや可愛いものを好みますから――」
「意味が分かりません」
「まあ要するに(自粛)と(自粛)が好きで、更に(自粛)で、(自粛)な傾向にあるってだけで……」
「……そんなこと言っていいんですか」
 八魔将筆頭で一番の側近の方だが、近いうちに青い服の人からお仕置きされるんじゃないだろうか。
「事実を言っただけですから」
「……」
 上司にそんな口を叩ける、あなたのその神経が分かりません。
「どうぞ、こちらへ」
 にこやかに笑うエスティシャン達が施術台へ上がるように強要するのにガクッと肩を落としながら、足元を見れば。
 ……何故、欠伸?
 奴は興味がないらしい。


 そして、2分後。
 理科室が吹き飛びかねない程の悲鳴と怒声と罵声が響き渡った。



 苦痛。苦行。苦難。
 第二理科室というプレートのかかった別の部屋で、脳味噌改造も無事に終了すれば、私の姿は完全にインドの名家のお嬢様である。
 推定年齢15歳。
 なのに衣装は目が飛び出るくらいのお値段と思われる夏大島と羅の帯。
「あの〜ぬいぐるみ様も暑さに弱いようでしたら、シャム猫にでも――」
 ミルヒアイスさんの提案は、奴の一睨みで撤回された。
 ぬいぐるみに遠慮するってどんだけ……?
 ──それはとにかく。
「あなたの今回の役割は、空事極光堂(そらごとあうろーら)の助っ人です」
「そらごとあうろーら?」
 ぼけっと言葉を繰り返せば、ミルヒアイスさんは偏屈王の主演女優の古本屋の名前だと教えてくれた。
 彼女はまた宝塚の男役だろうか。
「いえ、今回は至って普通な、可愛いもの好きの、若い女性の店主さんです」
「……可愛いもの好き?」
 ええ、まあ、と口を濁すのは何故だろうか。
「本当に、古本市か?」
「ええ」
「文庫本、多い?」
「店によります」
「そらごとあうろーらは?」
「……単行本とか……文庫本よりもちょっと大きいものが多かったです」
「表紙に絵、あるか?」
「はい」
「どんな絵か?」
「見目麗しい男性2人とか女性2人が……その……」
「……」
「あ、でも空事極光堂の本には一応15歳未満の子供は出て来ないようですが」
「……」
 他の店にはあるということなのか?
「ほんっとおーに、古本市か?」
「はい。中身はどうあれ古本が集まってるのですから古本市です」
「……」
 反論出来ない。
「ああ、それから――」
「何だ?!」
「空事極光堂の店主にはちょっと変わった趣味がありまして」
「……魔王の知り合い、普通の奴、いたか?」
 彼は言いにくいのか曖昧に笑った。
 その態度が既に肯定しているようなものである。
「時々、正義の味方になります」
「?」
「それで店番が疎かになります」
「??」
 意味が分からない。
「普段から真面目にブログを読んで、予習していれば分かります」
「予習、本だって言われた」
「今や『アラフォー』は常識ですよ」
「彼女は40歳か?」
「その半分くらいだと思いますが」
「何で、アラフォー?」
 ミルヒアイスさんは溜息をつき、パソコンの画面を指し示して、言った。
「予習、して下さい」



 神社の鳥居の所であの方の三毛猫と合流すると、それまで腕の中で大人しくしていたぬいぐるみが肩によじ登った。
 つられたのか、にゃあ助ももう片方の肩に乗っかった。
 月に代わっておしおき、と呟きながら白い麻の日傘をさして境内を呑気に歩いて行く。
 古本市とは言うものの、境内には食べ物を扱う屋台も多く並んでいる。
 美味しそうな匂い。
 誘惑を振り切り、古本屋のテントを目指す。
 空事極光堂に行ってみれば、私と入れ違いに若い女の子がお店を抜けて行った。
 店主が雇ったバイトさん。
 今の私の外見と同じくらいの年頃のお嬢さんだ。
「さて、ココロちゃん。そろそろ混沌魔王様のおいでになる時間だよ」
 ……『ココロちゃん』?
 それは何だと問うてみても、ろくな答えは返って来ないし、今の私のたどたどしい日本語ではうまく言葉を返すこともままならない。
「私もたまには、見た目から変えてもらおうかなー」
「やめておく。それだけは、オススメできない。ゼッタイ」
 混沌仕様にろくなものなどある訳がない。
 黒と白とを両脇に、青い服の諸悪の根源がふらっと店に現れた。
「お前ら、よく来た。なにか買え」
 この程度しか言えない自分の言語能力が恨めしい。
「混沌魔王、早く姿、元に戻せ」
「とっても可愛らしい姿ですよ」
「世辞、いい。この姿、疲れる」
「まつりが終われば、自動的に魔法は解除されます」
「ソレ、ホントか?」
「悪魔は嘘をつきませんよ」
「お前、悪魔、違う。お前、ホントは──」
 その時。
 目の前の人物がにっこり笑って何かを差し出した。
 あ、プリンだ。美味しそう。地獄極楽プリンだな、これ。
 ──ん? 地獄極楽プリン?

 にゃあっ!

 みー!

「うわあああっ!」
 何で飛びかかるんだお前らっ!
 猫と猫モドキはプリンに向かって突進――するついでに私をどついて行く。
 地獄極楽プリンは奴等の大好物なのだが。
「ついで」の猫パンチとか爪で引っ掻くのとかには絶対悪意があると思う。



 青い嵐が過ぎ去り、平和な店番が始まった。
「私は可愛い女の子が大好きなんですよ」
 ……。
 前言撤回。
 店主の笑顔がそこはかとなく、いやかなり怖い。
 偏屈王の主演女優ってこんな人だったっけ?
「アサト、それ冗談に聞こえない」
「冗談です。ふふふ」
 これでは魔王様と同じではないか。
 ──しかも。
「アサト」
「なんですか? ココロちゃん」
「なんで耽美系、多い?」
「純然たる趣味です」
「……。アサト」
「はい、なんでしょう? ココロちゃん」
「なんで女の子同士、手をつなぐ表紙、多い?」
「純粋なる趣味です」
「……」
 ミルヒアイスさんが教えてくれた通り、お店の本の殆どは電車の中で堂々と読めるものではない。
 つーかさあ、昔はもっとソフトな感じだったよねえ。こんなにハードじゃなかったよねえ。
 刺激を求める人が多いってことなのかしら。
 それより、古本市が終わるまでに『ココロちゃん』に慣れるだろうか。
 本の整理をしながらこっそり溜息をつく。
 すると。
 急に店の前が騒がしくなった。
 真夏の夜の夢の再現なのか、古本市でロバ――じゃなかった、馬の頭した人が暴れてるってどういうことだろう。
 何でよりにもよって暑苦しい場所で暑苦しいことすんのよ!
「アサト、どうする? 逃げるか?」
 振り返ると、店主はいない。
「萩の月と政宗公に代わってお仕置きよ!」
 どんなからくりを使ったのか、店主はあっという間に派手な装束に着替えて馬の人と対峙している。
 ううむ、これが噂の──いや、待て。
 神社の境内で、アラフォー、などと絶叫、率先して喧嘩──いや、戦闘か──してる訳だよね、古本屋の店主が……。
 これが、趣味?
 まあ暴れ馬は誰かが止めなければいけない訳だけども。
 頭痛がしてきた。
 川中島になる前に何としてでも帰宅しよう。
 仕事の合間に作った麦茶をコップに注ぎながら、決意をかためる。
 爆風を避けて店の奥の椅子に腰かけ、心を落ち着かせるべく麦茶を口に含む。
 傍らには、只今店の前で大暴れしている店主の飲みかけのラムネ。
 瓶の底から湧き上がる小さな泡。
 戻って来るまで炭酸が抜けなきゃいいけど。
 扇風機の近くで昼寝を始めた猫と猫モドキを横目で見ながら団扇をあおぐ。
 足元から蚊取り線香の煙が細くたちのぼる。
 やっぱり、夏の京都は暑い。






 空事極光堂には電車の中で堂々と読める本も並んでいる。
 少ないけれど。
 お客が来ないのをいいことに、椅子に座って麦茶を飲みながら本の頁をめくる。
 乱闘は古本市の何処かしらで発生しており、お客は騒ぎがある度にそちらに行ってしまう。
 困ったことに、この店の店主はその騒ぎの殆どに関わっていて、自然と店番は若い真面目なバイトさんと似非インド留学生の私がやることになるのだが。
 ──いや、とにかく暇なのだ。
 店主がいる時はそれなりに繁盛するし、若いバイトさんが店の表で本の整理なんかをしているとちらほらお客も来るのだが、私一人の時は間違いなく誰も来ない。
 遠くで、アラフォー、と叫ぶ声が聞こえる。
 偏屈王の主演女優大活躍である。
 偏屈王の上演も校内のあちこちで行われていたが、古本市の乱闘も同じく境内のあちこちで行われている訳で、何か似てるなあと思いながら呑気に本を読む。
 否、前回の体育祭もそうだったか。
 今回ありがたいのは私が戦闘に加わる必要がないということで、体力的には非常に楽だ。
 あとは暑さに耐えればいい。
 ……あ、雨。
 結構大粒かも知れない。
 店先の本が濡れない位置にあることを確認して、ほっと息をつく。

 にゃあ。

 みー。

 雨の音で目が覚めたらしい猫と猫モドキが本棚から戻って来た。
 やだなあ。如何にも『遊んで』モードだなあ。
 ──やれやれ。
 遊ばなきゃいけないのか。
 溜め息をついて本を閉じると、お客が来た気配を感じた。
 雨宿りかも知れない。
 顔を上げ、いらっしゃいませ、と言いかけて、彼女の視線の先に奴がいることに気づいた。
 体育祭で奴と踊ってた方だ。
「猫……!」
 彼女は目をきらきらさせて、奴に手を伸ばした──その刹那。

 うにゃあ!

 みー!

 止める間もなかった。
「きゃあああっ!」
 猫と猫モドキは遊び相手と認識した彼女に勢いよく飛びつき、じゃれついた。
 ……なるほど。これを猫まみれと言うのか。
 そんなことを思いながら、私は救急箱を探しに立ち上がった。



 店主とバイトさんが店に戻って来て間もなく、一旦やみかけた雨はまた降りが強くなった。
 ……濡れるかなあ、やっぱり。
 慌てて本を片付けようとする私を、店主は俄か雨だからと言って止める。
 それを笑いながら見ている若いバイトさん、時々私を見る目が胡散臭そうな感じになるのは何故だろう。
 やはりこの外見だろうか。
 それとも持参したぬいぐるみが動くのがいけないのだろうか。
 白い空からは相変わらず雨が降り注ぐ。
 この雨でちょっと涼しくなるといいけれど、きっと雨がやめば途端にもわあっとした不快な空気が漂うことだろう。
 店先でそんなことを思って外を眺めていると、後ろから声がかかった。
「ココロちゃん、麦茶ばっかりじゃなくて、たまにはラムネ飲んだら?」
 振り返れば、呑気な声と共にラムネの瓶が差し出される。
「甘いから、いい」
「まあ、そう言わない」
 瓶は既に開いていた。
 中から次々と湧き上がる泡は水面へと向かい、やがて瓶の外へと抜けて行く。
 口の中で暴れる炭酸に顔をしかめながら、干上がった地面を宥める雨をぼんやりと眺めた。
 雨がやむまでには私もこのラムネを片付けなければならない。
 そしたら、空事極光堂も店じまいだし、じきに合戦も始まる。
 傍らに立つ店主に尋ねる。
「アサト、魔王につくのか、それとも」
「さあね。ココロちゃんは?」
「今回は、パス」
「ずるいなあ。ねえ、にゃあ助」
 にゃあ、と猫が同意していたが、知ったことではない。
 雨の中、店の前を鎧武者が走って行く。
「……そろそろ店じまい、かな」
 店主が奥に戻って行き、私は屈んでラムネの瓶をひっくり返した。
 雨と共に、泡は地面に吸い込まれて消えて行った。



 雨が上がる頃には撤収もほぼ終わり、私はぬいぐるみと共に会場をあとにした。
 水分を多く含んだ不快な熱気がまとわりつく。
 鳥居に向かって急いでいると、腕の中の奴が顔を上げた。
 ……何?
 思わず立ち止まると、鳥居の外に人影が浮かび上がった。
 赤毛の人だ。
 まだ合戦の刻限ではないので、とにかく鳥居をくぐって外に出てしまう。
 もたもたしていると戦う意思ありと見なされてしまうおそれがあるからだ。
 神社の外で御挨拶をすると、ネコバスまで送って下さると言う。
 奴を気にして微妙に腰がひけているので、留学生の拙い言語能力で出来る限り丁重にお断りしたのだが。
「主から言いつかりましたので」
 ……可哀想に。
 魔王様、何やかんや言ってもやっぱりSじゃあないだろうか。
 それに、私の場合ネコバスに乗る前に身体を元に戻さなくてはならないから時間がかかるのだが、ミルヒアイスさんは戦闘に加わらなくていいのだろうか。
「私は色々後始末が……その……」
 御都合主義も、やはり何処かに皺寄せが行くらしい。
 ネコバスに送られて家に辿り着くと、ぬいぐるみが盛んにお腹が空いたと主張しはじめた。
 しかし、疲れて何も作る気にならず、私は卓袱台に突っ伏した。
 ……疲れた。
 それでも負けじと奴が喚くので、皿にお土産のラムネを少し注いで奴の鼻先に差し出してやる。
 ぬいぐるみが炭酸と格闘しているのを確認してから、私は瓶に視線を移した。
 泡は絶えず湧き上がり、瓶の中を通って消えて行く。
 ……あと、4本あったっけ。
 御隠居の所に2本持って行って、明日にゃあ助に1本、奴にもまた1本飲んで貰おう。
 瓶の底から湧いては弾ける泡を眺めながら自分では飲まないラムネの行き先を決める。

 みー。

 そして、空になった皿にまたラムネを注ぐ。
 瓶の底にはまだ少し中身が残っている。
 勿体無いので残りを口に含んではみたものの、苦手な炭酸にやはり顔をしかめる羽目になった。
 口の中で二酸化炭素が暴れる。
 なかなか飲み込めずにいる私を見て、奴は静かに笑った。







(終わり)







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