柴犬は雨を降らす
やわらかな雨。
春は確実に近づいている。
傘がいらないくらいの、優しい雨の中、帰宅すれば。
「おかえりなさいませ」
桜色の小紋に白い割烹着姿の見知らぬ女性が、三つ指ついて玄関にいた。
私は独り暮らし、である。
猫モドキはいるけれど、家政婦を雇った覚えはない。
言っておくが、私は生まれも育ちも女で、異性愛者であって、私が妻になることはあっても、妻をめとるようなことはない。
とは言うものの。
──この食卓の素晴らしく賑やかなのは何だ。
隙間のないほどにおかずが並び。
飼い猫ならぬ飼いぬいぐるみと、またしても泊まりに来た他所のお宅の本物の猫が、卓袱台の上をじっと眺めている。
其処へ、しなやかな動きで、見ず知らずの女性が御飯とお汁を運んで来る。
「あの〜、すみません、あなたはどちら様で……?」
恐る恐る尋ねてみれば、女性は手を口に当ててくすくすと笑った。
「紺、です」
「こん、さん?」
そんな人、知り合いにいたっけ?
首をかしげていると、彼女は言った。
「昨日からお世話になっております」
──昨日?
紺って……あっ!
「ってじゃあ、御隠居様のお宅の柴犬!」
私がぽん、と手を叩くと、彼女は恥ずかしそうに言った。
「犬じゃありません。狐、です……」
──数日前。
鶉飼いの御隠居から、電話がかかって来た。
「ちょっと頼みがあるんやけどな」
……頼み?
またどっかの女の子引っかけたら男だったとか、友人のアパートの別の部屋の女性の下着を盗もうとしてお仕置きされたとか、UFOを見つけて追いかけたら改造されたとか……。
「そうやないっ! 大体いつもいつもオカルトとエロばっか考えてる訳ないやろっ!」
……じゃあ何です?
「うちの紺を預かって欲しいんやけど」
御隠居は最近、鶉の他に柴犬を飼い始めた。
何でも、散歩の途中で拾ったのだと言う。
大人しい犬で、吠えることもなく、御隠居が随分可愛がっていたのだが。
「検査入院せなあかん言われてなあ」
……ああ、脳味噌溶けてきたんですか。
「そうそう、耳から……って違うわっ!」
……じゃあ、ついに痛風か糖尿か、それとも。
「圓生の牡丹灯篭聴かせよか?」
……よ、喜んで預からせてもらいます。
「じゃあ、アンタんとこの猫を寄越してくれればええから」
……アイツはぬいぐるみです。それに犬を連れて来るなら私が行きます。
「紺なら大丈夫や。逃げたりせえへん」
……犬を外で放したら他人様に御迷惑です。
「アンタより猫の方が信用出来る」
……ふざけんなっ!
そして昨日。
奴は柴犬を連れて我が家に戻って来たのだった。
奴の首には《天使のお尻》なる名前の真っ白なクリームパンが幾つか入った風呂敷包み。
……あの御隠居、こういうものを一体何処で見つけて来るんだ。
犬の首にはお宅で作ったらしき干し柿と手紙が入った風呂敷包み。
パンと柿を並べて、その意図を考えたが、分からない。
意味があるとすれば、オカルトかエロだろうが。
パンはともかく、柿は其処にあったから犬に持たせただけかも知れない。
手紙には「散歩不要」とだけ書かれていた。
……これは有難い。
其処へナナさんがやって来た。
「にゃあ助が泊まりたいと言っているの、です」
そう言って、有無を言わさず、土産のシュークリームとにゃあ助を置いて行き。
あっという間にパンと柿とシュークリームは猫と犬に食べられてしまい。
(いや、犬は控え目だったか)
何も食べられなかった私は、卓袱台に突っ伏して、呟いた。
……シュークリーム食べたかったのに。
すると、奴が何処かに消えて行った。
……流石に罪悪感が芽生えたのかな。
そう思っていると、間もなく何かをくわえて戻って来た。
──革靴の手入れをする際の、クリーム。
……ふざけとんのか貴様あっ!
ぬいぐるみ相手に叫んでみたが、虚しい。
外は霧のような雨が降っていた。
で。
今朝までは犬――じゃない、狐だった。
動物3匹に見送られて出かけたから。
帰ってみれは、狐は人間に化けていた訳だ。
「お口に合うかどうか……」
この恥ずかしそうに言う処なんぞ、最早天然記念物だ。
何処の新妻だ。
今どきこんなのテレビにだっていないよ。
しかも。
この狐さん、とってもお料理上手でいらっしゃる。
……美味しいです。
そう言うと、紺ちゃんはとっても嬉しそうな顔をした。
でも。
あ〜尻尾振ってるよ。
耳まで出てるし。
駄目ですよ、見えてますからっ。
こうして見ると、確かに狐だ。
……御隠居様にも、こうして毎日御飯を作っていらっしゃるんですか?
「時々……。御自分で作るのがお好きな方ですから……」
料理は御隠居から教わったと言う。
つーかさあ。
この子独りでお留守番出来るでしょ〜。
何でわざわざうちに寄越すの。
柴犬じゃなくて狐だったと分かった時、私が驚くのが見たかったんだろうか。
私は猫達共々美味しい夕飯を頂いて、家事をしなくていいという幸せな気分で眠りについた。
翌日も雨。
週に一度の、生活費を口座から下ろす日。
私は近所にある唯一のATMのあるコンビニに向かった。
ところが。
『故障中』
……嘘、でしょ?
私は機械に貼りつけられた紙を呆然と眺めた。
銀行は電車に乗って行かなきゃいけないのに、その電車賃すらない。
困った。
暗い顔をして家に戻ると、ぬいぐるみが近寄って来て、みー、と鳴いた。
……おやつはありません。
みーみーみー。
……お金、下ろせなかったから、ないの。
奴は回れ右をして何処かに行ってしまった。
食べ物くれなきゃ用はない、ってか。
ムッとしたが、仕方ない。
すると。
奴が紺ちゃんと一緒に戻って来た。
お茶を私の前に置くなり、紺ちゃんは言った。
「あの……お金がないとか……」
……ああ、紺ちゃんは心配しなくていいから。
「宜しければ私を買い物に連れて行って下さいませんか」
……?
意味がよく分かりませんが。
「私がお金に化けますから」
……へ?
「御隠居様はその為によく私を連れて買い物に行かれます」
……あの人はまたそーゆー訳の分からんことを。
「時々、トランプにもなります」
……紺ちゃん、その先は言わなくていいです。
つーか、頼むから言わないで。
「どうか連れて行って下さい」
にゃあ。
みー。
紺ちゃんが頭を下げ、にゃあ助と奴が加勢するかのように鳴いた。
雨が止んだので、買い物に出かけた。
コートのポケットには、そこはかとなく温かくて、折らないように緩く丸めた樋口一葉が1枚。
傍らには本物の猫が1匹。
狐と猫の間でどんな会話があったのか、何故かにゃあ助が買い物について来た。
奴は水に弱いので、家に残った。
行きつけのスーパーに行き、籠を取る。
安くて美味しそうな魚を入れ。
これまた安いバラ肉をしこたま入れ。
油揚げを入れ。
野菜を幾つか入れ。
お菓子を入れ。
レジに持って行った。
「2248円になります」
五千円札を差し出す。
「五千円お預かり致します」
店員がレジに五千円札を入れた途端、ギャッっという声が聞こえたが、聞かなかったことにした。
お釣りをせしめて、場所を移し、籠から袋に品物を入れ換えていると、すっと足元を弾丸が通ったような気がした。
構わず外に出ると、にゃあ助が何かをくわえて店から飛び出して来た。
それは次の瞬間、柴犬そっくりな姿になり、2匹揃って走り去った。
翌日は傘がいらないくらいの雨。
朝からコンビニに行くと、ATMの故障は直っていた。
早速お金を下ろして、帰宅した。
卓袱台の前にどっかりと腰を下ろすなり、奴がおやつを期待して近づいて来た。
……あ、ちょっとにゃあ助呼んで来て。
奴が呼びに行くより早く、にゃあ助が茶の間に入って来た。
自分に用があるのが分かるのか、私の前に座って、にゃあ、と鳴いた。
私は千円札を5枚渡して、スーパーが開店する前にこっそりお金を返して来るよう言った。
混沌のお方の猫。
きっと昨日のレジの中に確実にお金を入れてくれるに違いない。
……手段は選ばない気もするけど。
にゃあ助は即座にお金をくわえて外に飛び出して行った。
奴が私を見て、首をかしげた。
……お金を返しに行かせるなんて、らしくないって言いたいんでしょう!
みー。
……うるさいっ!
みーみー。
……お店に損害出したら駄目でしょう。もしレジ係さんが任意弁償なんてことになったら困るじゃない。
みー。
……開店前に入れとけば、レジの中をチェックした時に出て来るから、ちょっとはマシかと思ったの。
みー。
紺ちゃんにお金になってもらうのは、もうやめようと思った。
妙に罪悪感が残るし、後が厄介だから。
落語のようにうまくはいかない。
……狸じゃないからこうなるのかな。
内心、そんなことを考えた。
夕方。
雨が止み、地面も少し乾いたところで。
柴犬そっくりな紺ちゃんを送りがてら、猫達と御隠居のお宅に伺った。
「紺、おかえりぃ〜。このオバチャンにこき使われたり苛められたりせえへんかったか?」
……失礼な。
飼い犬、じゃなかった、飼い狐が戻るなり、デレデレな御隠居である。
……御隠居様。紺ちゃん、独りでお留守番出来るのに、何でうちに預けたんです?
「こない可愛いのが誘拐されたらと思うと心配でなあ」
……いつも家の中にいるんだからいいじゃないですか。
「紺は寂しがりやし」
……成程。それで夜も添い寝を。
「こ、紺が言ったんか!」
……。
「いや、その、つまりな……」
……。
「ゆ、湯たんぽ代わりに丁度ええと思て……」
……。
「いやあの〜紺は雷が苦手でな、ピカッゴロゴロ、キャー、っと……」
……茄子娘かっ!
「いや、どっちか言うたら天神山……」
……やかましいっ。結局同じことでしょうっ。
まるで剣客商売みたいだな。
まあ、要するに。
……若くて綺麗な奥様が自分のいない間に変な男に引っかかったり、若い男を家に入れたら、とか考えたんでしょう。
「そ、そないなこと考えるかっ!」
私が御隠居と舌戦を繰り広げている間に、紺ちゃんは桜色の小紋に白い割烹着姿になり、猫達におやつをあげている。
……御隠居様。紺ちゃん使って大貧民でイカサマやったり、色々悪さするの、止めた方がいい気がしますが。
「いや、それは……」
……紺ちゃん可哀想じゃないですか。
「そ、そやな……」
やはり、紺ちゃんには弱い御隠居である。
……つーか、随分と歳の離れた御夫婦で。
「あほっ! 俺はいつだって26だっ!」
……靴のサイズでしょう。
気だけは若い。
「そのうち子供を……」
……。
「まだまだいけるっ!」
……何を根拠に。
「26センチ!」
……だから靴のサイズだって。つーか、明らかに嘘だし。しかも、サイズは問題じゃないでしょう。
それにしても。
生きてる猫のぬいぐるみといい。
凶暴な猫といい。
人間に嫁いだ狐といい。
たまには普通の動物はいないのか。
こうしてみると、御隠居宅の鶉が普通の鶉かどうか、非常に心配になって来る。
……まさか、ね。
鶉は鶉、の筈だ。
そうであって欲しい。
数日後。
散歩から帰って来た奴の首には、風呂敷包み。
……誰からだろう?
包みを開けてみれば。
少し大きめなフランクフルトとアメリカンドッグ。
手紙が1枚入っていた。
『靴を履かせること』
……。
私は短い手紙をしたためて、奴に託した。
『靴を履かせる為には腰紐が必要ではないかと』
暫くあのお宅には近づかないようにしよう。
コートを着て靴をぶら下げた人が、家から出て来て出迎えるなんて嫌だ。
奴を送り出して、私は固く心に誓った。
(終わり)
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