クレセント


 ここに雑誌の切り抜きがある。
 一枚の写真。
 カラー写真ではあるが、いささか茶色味がかった古い写真。
 中にはこれまた古めかしいカメラを持った三十過ぎの男性が写っている。
 彼女は今日もその切り抜きを手に、出かけて行く。
 靴の底をすり減らしながら。



 もう、この世にはいないと思っていた。
 繋がれた手を離れて次に目が覚めた時、彼女は彼女ではなかったから。
 もう、会えない。
 ただ、そのことが悲しくて、彼女は涙を流した。


 それから、随分と時間は流れ――或る日。
 彼女は雑誌でその名前を見つけた。
 懐かしい名前を。
 その脇には美しい風景を写した写真。
 そして、忘れられない顔が写っていた。
 写真を撮るのが好きなくせに、撮られるのが嫌いだというひとの、たった一枚の写真。
 昔の自分だという。
 それは、彼女が写した写真だった。


 もう、私のことは忘れているかも知れない。
 新たに家庭を持っているかも知れない。


 けれど。

 探さずにはいられなかった。



 人づてに聞いて辿り着いたのは、或る山の麓の集落。その一角の、古い家。
 表札には名字だけ。
 一人で住むには大きな家。きっと他に家族がいるだろう。
 緊張と恐怖で玄関に立ち尽くす。
 インターフォンが押せない。
 その時。

「あの……どちら様で……」

 記憶よりも少し低い声。
 意を決して振り返ると、そこには灰色の髪の男性が立っていた。
 相変わらず日に焼けた顔には歳相応の皺が刻まれている。
「あの……雑誌を見て……山の写真を……」


「……晶子?」


 昔の名前を呼ばれて彼女は目を見開いた。
 姿も声も、全て昔とは違うのに。
「どうして……」
「どうしてかな」
 彼は笑った。
「大体、山の写真見て来たって言うのに持ってる写真が俺の写真だけっていうのもおかしいだろ」
 昔と同じ、柔和な笑顔。
 思わず涙が流れた。
「見つけてくれたんだな」
 その言葉に彼女は頷いた。
 涙をぬぐってくれる暖かな手。
「散らかってるけど、まあ上がれ」
「家族は?」
「……親父もお袋も知んだよ」
「じゃ、なくて」
「独りだよ。周りには変人扱いされてるけど」
「老けたね」
「当たり前だろ。あれから何十年経ったと思ってるんだ」
「二十年かな」
 彼女は笑った。
 目に見える二十年という年月。
 けれど、こうして話していると不思議と長い空白があったとは感じない。
「ただいま」
 玄関に入ってそう言うと、彼は振り返って笑った。


「おかえり」





(終わり)






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