チョコレート
子供が嫌いだった。
自分の想像を超える行動。
耳障りな疳高い声。
恐ろしく残酷な思考経路。
全てが煩わしい。見るのも嫌。近くにいたらどうしていいのか分からない。
――そう思っていた。
親や教師は鬱陶しい。同級生は面倒くさい。けれど、この世は全て人間関係で成り立っている。
他人とうまくやっていく『振り』だけでも出来なければ生きてはいけない。
「なんかさー、担任うざいしさー」
隣で友人が言う言葉を決して否定してはならない。例えこういった言葉の方が担任の小言より百倍煩わしくても。他人の悪口を言わない『いい子』に見られることは非常に危険なことなのだ。ただでさえ人見知りで喋るのが苦手で大人しく見られがちなのだから。
「全くさー、あのくらいいいじゃんねー、あれ絶対結婚出来ないよ」
「そもそもモテないんじゃないの」
空虚な笑い。友人には悟られてはならない。
「じゃ、また明日」
駅で別れて電車に乗ると、ほっと溜息をつく。やっとひとりになれる。キャラを作らなくてもいいし、気を張ることもない。
扉に寄りかかって少しうとうとした。疲れた。眠い。
電車を降りたら歩いて30分。朝は15分で歩けても、帰りはどうしても30分かかってしまう。
とぼとぼ、ひとり道の端を歩く。
後ろからぱたぱた音が聞こえては消える。子供が走っているのだろうか。何でそんなに元気なのだろう。自分は学校に行くだけで疲れ果ててしまうのに。
「あのっ」
子供の声がする。誰かを呼んでいるらしい。
「すみませんっ」
一体誰を呼んでいるのだろう。
「すみませんっ」
何度も何度もうるさいな、と振り返れば目の前に赤いランドセルの女の子がひとり。
(私……?)
何故、自分なのか。
「あのっ」
見知らぬ小学生。何年生だろうか? 決死の表情でこちらを見上げている。
「あの、これどうぞっ」
右手には小さなチョコレートがひとつ。
「え?」
「あげますっ」
反射的に出してしまった手のひらにチョコレートが置かれた。
「あ、ありがとう……」
女の子はにっこり笑ってぱたぱた走って行ってしまった。
(何で?)
何で見ず知らずの子供からお菓子を貰ってるんだろう。
(いいのかなあ……)
学校で流行っているんだろうか。或いは友達とおかしな賭けをしているのだろうか。手のひらにぽつんと残されたセロファンの包みを眺めながら、よく分からないことを考えた。
「せんせーさよならー!」
「さよなら。気をつけて帰りなさいよー」
「だいじょーぶー!」
「こら! 道路は走るな! 危ないから!」
――あれから10年。
対人関係、特に子供が大の苦手だった筈の私は、何故か子供相手の商売をしている。
あのチョコレートの子にはあの日以降会うことはなかったし、あの出来事が自分を変えた訳ではないとは思う。
でも、人間は変わるものらしい。
勿論、未だに人見知りだと自分では思っているし、友達らしい友達もいないし、表面的な付き合いだらけだし、家と職場の往復だけのつまらない生活だけど。
それでも人と接する仕事は出来ている。よりにもよって子供相手の。
確かに他人と比べたら随分成長の程度は低いし、本当にスローなペースではある。
(あの子、どうしてチョコレートをくれたんだろう)
今でも謎だし、これからもきっと謎のままだろう。
「お先に失礼しますっ」
振り返ると、ボランティアの女子大生が荷物を持って後ろに立っていた。慌てて横に退くと、彼女はにっこり笑って言った。
「倉田先生、これどうぞっ」
彼女は小さなチョコレートを差し出した。
「あら。いいの?」
「食べて下さいっ」
「じゃあありがたく頂くね」
「はい――じゃあ失礼しますっ」
急いでいるらしくぱたぱたと走って帰って行くのを見て、いいなあデートかなあ、と思いながらセロファンを解き、貰ったばかりのチョコレートを口に放り込む。
貰うのも口にするのも躊躇がないのは歳をとって図々しくなったからなのかも知れない。
甘味は口に広がり、疲れた身体にじんわり染み渡って行った。
(終わり)
※数年前、私も知らない小学生の女の子からお菓子を貰ったことがあります。
通りすがりに。
あれは一体何だったのでしょう?
未だによく分かりません。
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