信号待ち


朝の信号待ちは、ストレスだ。
九重(くじゅう)は、渡る寸前に色が変わってしまった信号を睨みつけた。
スクランブル交差点。
車と歩行者が完全分離の「安全な」交差点。
……早くしろっ!
苛々と足踏みしてみても、寒さで震えているのだろうと思われるのがオチだ。
目の前で車が行き交うのを苦々しく思いながら、遅刻の言い訳を考える。
電車が遅れた。
バスが遅れた。
寝坊した。
病人の看病をしていた。
親が倒れた。
祖父母が危篤。
――ほぼ、使い尽くした気がする。
1、2分遅れたからって何がどう影響するって言うんだ。
大して変わらないじゃないか。



……あーあ、やっぱり遅刻だ。
携帯を眺め、仁枝(ひとえ)は溜息をついた。
通勤に利用している電車が何らかの理由で車両交換、その後急病人が出た為に、数分置きに走る電車のダイヤも大幅に崩れた。
お陰で車内は無駄に混み合い、車内アナウンスは「只今この列車の前を走る列車が次の駅に止まっておりますので、少々停車致します」ばかり繰り返し、電車は止まってばかり。
車両交換ならまだいい。
具合が悪くなりそうなら満員電車に乗らないで欲しい。
車内で倒れることで、どれだけの人が迷惑すると思ってるんだろう。
でも。
理由はどうあれ、遅刻は遅刻。
連絡を入れているから大丈夫だろうと思いながら、苛々と信号を見つめた。



……此処、長いんだよな。
苛々を抑える為に煙草を吸おうとすれば、隣の女性会社員に睨まれた。
……煙草くらい好きに吸わせろよ!。
渋々煙草はしまい込み、手をポケットに突っ込んで誤魔化す。
……だから嫌なんだ、こういう女。
潔癖で、生まれながらの小姑気質。
口から出るのは文句と嫌味。
でも、器用で何でもそつなくこなすから教師とか上司の受けはいい。
……ムカつく。
学生時代も働くようになってからも、自分の周りに必ずいるタイプだ。
今の職場もそうだ。
重箱の隅をつつくのが趣味の、嫁にも行けないお局が数名。
若手に疎まれ陰で笑われてるのも知らないで。
……ばっかじゃねーの。



隣の男が煙草を取り出したのを見て、仁枝はギョッとした。
……こんな所で吸うつもりなの、この人?!
顔を見てやろうと見上げると、男はムッとした顔で、煙草を上着のポケットに戻した。
……フリーターっぽい。
いい歳をした大人が、アルバイトなんて責任のない仕事をしている等、信じられない。
……後で解雇されて気づいても遅いのよ。
将来を考えたりしないのだろうか。
今が良ければそれでいい、なんて。
……馬鹿じゃないの?
そういえば、定期、いつまでだったかな。
ふとそんなことを思い出し、バッグからパスケースを取り出した途端。
――あ。
パスケースが、落ちた。
慌てて拾おうと身を屈めかけた瞬間。
隣から長い腕がぬっと伸びて来て、パスケースを拾い上げた。



「あ」
隣から声が聞こえた。
ふと見ると、赤いパスケースがコンクリートの上に落ちている。
隣の女性会社員が身を屈めようとしている。
何でスッと取れないんだろう、と九重は思った。
……コイツ、潔癖な上にドンくさい。
九重は腕を伸ばしてパスケースを拾い上げた。
無言で渡すと、女性はキョトンとした顔になって、小さな声で言った。

「すみません……」

九重は、いえ、と短く返し、何もなかったかのようにまた信号に視線を戻す。
隣の女性が身を立て直した気配がした。
……結構普通じゃん。
苛々した気持ちはいつの間にか消えて。
信号の脇の表示が、待ち時間があと僅かであることを告げていた。



……え?
隣から伸びて来た腕がパスケースを拾い上げ、パスケースはそのまま仁枝の前に差し出された。
……うそっ。
他人の落とし物なんか絶対に拾いそうにない男に見えるのに。
仁枝は慌てて受け取り、礼を言うと、隣から小さな声が聞こえて来た。

「いえ……」

男は何もなかったかのようにまっすぐ前を向いている。
仁枝も彼にならって姿勢を戻した。
パスケースをそっとバッグにしまった。
……何だ、結構ちゃんとした人なんだ。
仁枝は何となく微笑んだ。
たまには遅刻もいいかも知れない、と思った。



信号が、変わる。



交差点を取り囲んでいた人々が、一斉に目的地に向かって歩き出した。
人の間を巧みに縫い、職場や学校や家へと急ぐ。
九重も。
仁枝も。
後で叱られたとしても。
仕事に支障が出たとしても。

仮面の下に笑顔を浮かべ、今日もまた、1日が始まる。







(終わり)






[ 5/19 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -