初信濃


飛ばされそうになる程強い春の風に、千佐は身を竦めた。
四方八方を山に囲まれた盆地。
雪が残っているせいで山からの風は冷たい。
傘があれば空が飛べるかも知れない、と何となく思いながら、帽子を押さえながら先を急ぐ。
今頃、家族はぬくぬくと暖かい部屋の中で、送られて来た魚に舌鼓を打っていることだろう。
何でも、魚を手配した奴曰く、チヌが入っているとのことだったが。
チヌって何?と尋ねると、クロダイのことだと教えられた。
……分かり易い名前で言え、分かり易い名前で!
こっちは素人なんだから!
そう叫んだのは数日前の話。
しかも、魚は千佐がいない時に届く訳で。
文句を言ったら、げらげら笑われた。
「目に花粉、山杉多数、初信濃、だな」
……何だそれは。
そして、千佐はこうしてただ独り、強風の中を歩いているのだ。
昔の道を辿って。



国の境に近い場所に置かれた関所。
最早、其処には石碑と崩れそうな蔵しか残ってはいない。
旅人や宿場を行き来する人足に馬、運ばれて行く大量の物品。
稀には大名も通っただろう。
よからぬことを企み、持っていてはいけないものを隠し持つ輩もいたのだろうか。
……でも、この街道で抜け荷にまつわることはなさそうだけど。
そんなことを呟いて、また先を行く。



橋の袂のコンビニで一休み。
車が行き来する目の前の橋を見つめる。
橋を渡れば、いよいよ信濃。
座り込んだ車止めの傍らには、昔の俳人の石碑。

目に青葉山ほととぎす初がつお。

にやにや笑う奴の顔がちらっと頭に浮かんだ。
……帰ったらシメてやる。
そう心に決めて、千佐は立ち上がった。
行き交う車がきれたのを見計らって道路を横断する。
そして、まっすぐ前を見て、帽子を押さえながら長い橋を渡って行ったのだった。




(終わり)









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