冷蔵庫の苺


いつものバス。
いつもの電車。
いつもの時間に邦子は作業所の入口に立った。
ドアを開けると、部屋の半分が暗かったので、灯りをつけて奥の部屋に向かう。
ヒョイと奥の部屋を覗くと、其処にはいつものように久保さんがいた。
「おはようございます」
母親に言われた通りに丁寧にお辞儀をして挨拶をすると、おはよう、という言葉が返って来た。
久保さんは何やらパソコンを操作したりリストを見たりと忙しそうだったので、邦子は荷物置場に向かった。
鞄を下ろし、帽子と手袋、マフラーをとり、コートを脱いでハンガーにかけ、鞄の中からノートを取り出す。
このノートは、久保さんと母親の交換日記のようなもので、書いてあることの殆どが邦子に関することだ。
久保さんは邦子の職場での様子を記し、母親は家での様子を記す。
作業所の通所者はみんなこのようなノートを持っているが、使用頻度は人によって違う。
邦子の場合は毎日だが、月に数回程度の人もいる。
邦子は再び奥の部屋に行くと、ノートを差し出した。
「久保さん、お願いします」
久保さんはその言葉に左腕を伸ばしてノートを受け取り、頁を開いた。
「……お母さんと買い物、行ったの?」
はい、と邦子は小さな声で答えた。
前日は仕事が半日だった為、邦子は職場でお弁当を食べてから、母親と地元の駅で待ち合わせて買い物に行ったのだ。
「何か、買った?」
「……これ」
邦子は甲を上にして、久保さんの前に手を出した。
右手の薬指に、ビーズで編んだ指輪が光っている。
「良かったね」
そう言われて、はにかみながら頷いた。



奥の部屋を出て、小さなキッチンに向かう。
コンロの上には大きなヤカン、流しの脇には小さなヤカンがのっている。
ヤカンの中には温かいお茶。
邦子は食器棚から自分のコップを取り出して、小さなヤカンのお茶を注ぐ。
「――あちっ」
猫舌には少々熱い。
少し薄めようと、冷蔵庫に入っている筈の冷たいお茶を求めて扉を開けた途端。
「……あ!」
冷蔵庫の棚には沢山の苺。
「あ〜あ、見つかっちゃった」
いつの間にか久保さんがキッチンの入口に立っていた。
「貰ったのよ」
「へ?」
「苺と蜜柑をね、箱で貰ったの」
「誰が?」
「みんなに、って持って来てくれたの」
「誰がくれたの?」
「……秘密」
久保さんは悪戯っぽく笑った。
「苺、お昼にみんなで食べようね」
邦子はお昼が楽しみになった。


冷蔵庫の苺には、後から出勤して来た同僚達もみんな気づいて大騒ぎ。
更に、久保さんの部屋の隅に蜜柑の箱を発見した人間も何人かいて、これもまた騒ぎになった。
「ねーねー誰から貰ったの?」
誰かから聞かれる度に久保さんは、「内緒」とか「秘密」だと言って教えてくれない。
――お昼は、苺。
逸る気持ちを抑えて邦子はみんなと仕事を始めた。
途中からは誰しも時計と睨めっこ状態になり、久保さんに叱られたりもした。
そして、ようやくお昼休み。
邦子達がお昼の準備を整えた頃、久保さんはキッチンからボールに山程入った苺をみんなに配り始めた。
1人、5個ずつ。
「久保さん、蜜柑は〜?」
食いしん坊な誰かが聞いたら、蜜柑は明日だとたしなめられた。
「いただきま〜す」
邦子はお弁当の蓋に入れて貰った苺をじっと見つめた。
大きくて真っ赤な、つやつやした、綺麗な苺。
「邦子さん、お弁当貰っちゃうよ」
久保さんの言葉に、邦子は慌ててお弁当に箸をつけた。



食後は仕事をする前にトレーニングと称して身体を動かすのだが、甘い苺の効果か邦子もいつになく身体が軽かった。
午後の仕事も順調にこなして、あっという間に帰りの時間。
邦子はみんなと共に久保さんからノートを貰って、作業所を出た。
いつもの電車。
いつものバス。
帰宅すると母親が夕食の準備をしていた。
ただいま、と言いながら邦子は母親にノートを渡した。
「お母さん、あのね、今日、苺食べたんだよ」
「苺?」
母親は首をかしげながらノートを開き、該当頁を見て、笑った。
「お昼に苺が出たのか」
「うん」
「そう、良かったね」



翌日の朝。
久保さんは邦子のノートを開き、クスリと笑った。


お昼に頂いた苺が嬉しかったようで、帰宅するなり「苺を食べたんだよ」と教えてくれました。
ありがとうございました。


「久保さん、どうしたの?」
邦子の言葉に久保さんは、何でもないよ、と言った。
……今日のノートは苺の話が多いだろうな。
久保さんはそんなことを思って、また笑った。





(終わり)




苺と蜜柑を箱で下さった或る作家様へ。
登場人物に代わり御礼申し上げます。
御馳走様でした。





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