夏子


金曜日。
桜は、念の為に頓服の安定剤を服用してから出勤した。
……ちゃんと笑えるだろうか。
夏子は自分を覚えているだろうか。
彼女が来る30分前。
桜は深呼吸をして笑顔をつくった。
――今だけ。
今だけ、元気で明るいサクちゃん先生になる。
気合いを入れて、事業所のドアを開けた。
「こんにちは〜」
ひょいと中を覗くと、奥から上司たる中野先生が出て来た。
「おおっ、サクちゃん登場! 体調、大丈夫?」
「ええ、まあ。体力は落ちてますけど」
「良かった〜。今日、夏子さん来るから」
「分かりました」
まだ誰もいない事務室の片隅に荷物を置き、上履きを履いていると、上司が珈琲を淹れて飲むよう勧めた。
「……最近、職員来るの遅いんですか?」
「金曜日は今、早い時間に来る利用者さんが少ないから、大概の職員が後から来るのよ。今は最初に来るのが夏子さん入れて4人だから、早い時間にいるのは私と木村先生と新しく入った山田先生だけ」
「……ああ、木村先生いつもギリギリですからね」
「そうそう。利用者さんもよく遅れるから」
通常であれば、利用者が来る時刻の30分くらい前に出勤するのが、この事業所での暗黙の了解事項ではあるのだが、利用者の状況によってその辺りは流動的である。
「……夏子さん、そんなに不安定なんですか」
病み上がりとも病んでるとも言える自分が呼ばれる程に。
「ちょっとね……」
中野先生は溜息をついた。
「職員の方も色々あってね〜。サクちゃんが辞めて少しして秦野先生が辞めちゃったでしょう? でもって最近、矢島先生が辞めちゃったしね……」
「成程」
桜は何となくその先の言葉が分かった。
つまり。
利用者やその保護者からの信用篤い職員がいなくなり、現在、此処には桜よりも後輩の職員しかいない。
みんな、仕事を頑張っているのは間違いないが、やはり負担が大きいのだ。
ベテランが抜けた穴は大きい。
「で、夏子さんは、やはり……来たらいつもキーボードに突進ですか?」
「そうそう。でもね、ここ半年、音楽やってるのよ。最初の1時間」
上司は桜に今年度の時間割を見せながら言った。
「――音楽やって、お茶飲んで……彼女はそこで帰宅ですね」
「そうそう。うちは行きだけ送迎で、帰りは近いからお母さんが迎えに来てる」
事業所は送迎サービスの為に、昔から送迎専門の人間を雇っている。
何故か、定年退職後の男性が多い。
「今日の送迎はシゲさんですか?」
「そうそう。金曜日だからね」
シゲさんは、桜がこの事業所に採用されてまもなくやって来た、ベテランの送迎スタッフである。
当然、利用者とも顔馴染みで、いるだけで安心感を覚える存在である。
「シゲさんもサクちゃんに会えるって楽しみにしてたわよ〜」
「……また変なお菓子とか持って来たりしないでしょうね?」
「さあねえ」
顔を見合わせて笑う。
「――でも、やることが決まってるのにどうして……」
桜は呟いた。
夏子はスケジュール通りに事が進めば不安定になることはないし、音楽は大好きである。
学校で何かあっても、此処に来れば安定していたのに。
それなのに、何故。
「見たら分かるよ」
上司は苦々しく笑った。



まもなく他の職員が出勤して来て、一通りの挨拶が行われた後に、上司が言った。
「夏子さん、ちょっと今日はサクちゃんに見てもらうから」
その言葉に、木村の顔が少し曇ったように思えたが、桜は見なかったことにした。
現在の職員の中で、上司以外では一番の古株は木村である。
桜の後釜と目されていたが、未だにこうして非常勤のところを見ると、彼にも何か問題があるのかも知れない。
事業所に送迎車が着いた。
桜は頭を切り換えて、利用者を迎えに外に出る。
「サクちゃん! 久し振りだねえ!」
「ええまあ何とか生きてます」
運転席から出て車の側面に回って来たシゲさんとの挨拶もそこそこに、桜は車の中を見やった。
――4人。
夏子は一番奥に座っている。
シゲさんがドアを開けると、他の利用者は続々と車の外に降り立ち、木村と山田が彼らの対応を始めた。
夏子は、降りて来ない。
「――夏子さん! サクちゃん先生来てるよ!」
シゲさんが声をかけたが、夏子は応じない。
「……最近、時々こんな風に車から降りないことがあるんだよ」
シゲさんの言葉に、桜は言った。
「じゃあ、私が」
シゲさんと交代して、桜が夏子に声をかけた。
「夏子さん! お久し振り! 元気だった?」
その声に、夏子が振り向いた。
目が合った。
桜は車に乗り込み、更に言葉を続けた。
「行こうよ、夏子さん! 音楽やるんでしょ、今日は! 私も音楽好きだから今日はつい来ちゃったんだけどさ」
桜は手招きした。
「行こうよ、夏子さん!」
視線はお互い逸れることはない。
……これは、戦いだ。
桜は思う。
自分が夏子を動かせるか否か。
夏子との戦いというよりも、自分自身との戦いだ。
桜はじっと夏子を見つめてから、おもむろに車から出て、背中を向けた。
「夏子さ〜ん、行くよ〜」
その言葉に。
夏子は立ち上がり、荷物を持ってそそくさと車を降り、桜に従った。
桜はさっとドアを開け、先に夏子を玄関に通し、シゲさんに会釈をしてから中に入った。


荷物を置き、利用者達が決められた席に着くと、音楽の時間が始まった。
前でキーボードを弾いて指導しているのは新しい職員の山田である。
何でも、以前に音楽を学んでいたとかで、障害のある子供に音楽を提供すべくこの事業所に来たらしい。
挨拶。
歌。
楽器。
布遊び。
プログラムが定着しているのだろう、利用者達は安定している。
しかし。
……何故、寝転がる。
大きな布をみんなで持って揺らす段になって、夏子は部屋の隅に行って、寝転がってしまった。
楽器は調子良く鳴らしていたのだが。
……興味、ないって訳ね。
桜は溜息をついた。
しかも、桜が夏子を追おうとすると、山田は言った。
「いいです。やりたくなったら戻って来ますから」
確かに、プログラムが終わる頃に本人は戻って来たのだが。
……あれは許されるのか?
桜には納得がいかなかった。
夏子はきちんと指示を伝えれば分かる人間である。
確かに大きな布を揺らして中の鈴やぬいぐるみを動かしたりするのは、彼女には興味がわかないことかも知れないが、全く出来ない訳ではない。
出来ることを出来なくしてどうするのか。
もやもやとした気持ちを抱えながらも、音楽の時間は終わり、テーブルを用意し、椅子を並べて、おやつの時間が始まった。
食欲は人間の三大欲求の1つである。
食べている時間は平和だ。
夏子の場合、それは正味5分くらいだが。
あっという間に食べ終えて、他の利用者を待つことになる。
「夏子さん、今日は落ち着いてますよね」
その様子を見て山田が言い、木村も頷いた。
「いつもはもっとふらふら歩き回るんですよ、音楽の時間は」
「長谷川先生と一緒だから嬉しいんですね、きっと」
桜は表面的には笑っていたのだが。
内心、首をかしげていた。
それは、夏子が桜のことを「この人の言うことは聞かなきゃいけない」存在だと思ってるからではないだろうか、と。
逆に言えば。
他の職員が言うことには従わなくていい、と思っているのではないか、と。



「まあ、サクちゃん先生!」
迎えに来た夏子の母親は、娘そっちのけで桜に笑みを向けた。
どうも御無沙汰してます、等と挨拶をしてから、桜は言った。
「中野先生から聞いたんですけど、何か学校が大変なんですか?」
「そうなのよ〜。うちの子、くじ運悪くって〜」
「くじ運って」
桜は苦笑した。
担任が当人にとって良い先生か良くない先生かは、まさにくじを引くようなものである。
良い先生はそういるものではない。
「夏子さん、学校の先生に負けないでね」
桜はそう声をかけたが、当人は聞いているのかいないのか、椅子に座って呑気に靴を履いている。
「サクちゃん先生、この時間いてくれるの?」
「さあ……それを判断するのは私じゃないもんで」
「あ〜そうよねえ」
夏子が立ち上がると、母親は言った。
「夏子、サクちゃん先生に挨拶」
その言葉に夏子は桜に頭を下げて、事業所のドアを開けた。
「じゃあ、また〜」
「さようなら」
パワフルな母親と寡黙な娘を見送り、桜は事業所のドアを閉めた。



騒がしい部屋を横目に、桜は事務室に入った。
職員は上司以外利用者の応対で出払っていて、こちらは静かなものである。
「……どうだった?」
上司が顔を上げて、尋ねた。
「夏子さんですか? それとも……」
「両方」
「夏子さんには何の落ち度もないですよ。別に。珍しく車から降りないとか活動の最中に寝転がるだとかは気になりますが」
「今日、車から降りたの早かった気がするけど」
「早いんですか?」
「よく、シゲさんとドライブしてるわよ」
「はあ」
利用者が車から降りられない場合、また車を走らせて近くを1周して戻って来るとさっと降りられたりする。
「タイミングの問題では?」
「そうなんだけどね」
「あとは……中の職員の指示が彼女に通らないとか」
「やっぱりねえ」
上司は溜息をついた。
「言ったんだけどね。伝わらないんだよね」
「……いつも、あんな感じなんですか」
「そうなのよ」
「彼女は滅多なことでは寝転がらない筈ですよね?」
「そうそう」
「ってことは、声かけが足りないからか、あれが余程嫌か、ですが……そんなに嫌がる活動でもありませんし……」
「そうでしょう?」
「放っておいたら駄目ですよね、逆に」
「多分ねえ」
「でも、多分、活動を強制させるような行動はしてはいけない、と山田先生は思っているでしょうから、私が夏子さんを叱るのは駄目な訳ですよね」
「そうねえ」
「ってことは、あちらが提供するものを変えて下さらないことには、どうにも……」
「そうそう」
「でも、変えない」
桜は上司と顔を見合わせた。
「もしかして、夏子さんのあの行動を正す気がない、とか……」
「諦めてる、とかね」
上司は言った。
「だからお願いしたいのよ。あなたに。体調が許せば、だけど」
「分かりました」
桜は頷いた。
「アルバイトまでの間が2日空いていれば大丈夫です」
それに。
「慣れてる仕事ならある程度は大丈夫だと思いますから」
……負けない。
闘志に火がついたような気がした。



しかし。
事業所から1歩外に出れば、電池は切れる。
気分は沈む。
表情は自然と暗くなる。
桜の脳内では今日の出来事の断片が駆け巡る。
夏子の担当から外された時の木村の表情。
音楽の時間に慣れない自分を見た時の山田の顔。
そして。
夏子を後ろに行かせてしまったこと。
そういったことが頭の中をぐるぐる回っている。
……やはり駄目だ、私は。
そう思うと足取りも重くなる。
カラ元気の反動は大きかった。
桜はまっすぐ帰宅すると、そのまま布団の中で丸くなった。
……寝てしまえ。
頭まですっぽりと布団をかぶった。






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