気にしすぎだ、とよく言われる。
考えすぎだとも。
何をくよくよ悩んでいるのか。
頭がおかしいんじゃない、とか。
どうしてそうなるのか理解出来ない、私には考えられない、とか。


――私だって、自分が理解出来ない。



長谷川桜は布団の中でじっとしていた。
今朝も起き上がるだけで一苦労だ。
寝入ったのは遅いが、目は覚めている。
さほど眠くはない。
でも。
布団から出るのに時間がかかる。
血圧は正常範囲内だ。
手足に麻痺がある訳ではない。
首から下は多少コレステロールが高いが、特に問題はない。
なのに、毎朝起きるのが大変なのだ。
脳内物質が他人よりほんの少しだけ少ないせいで。


桜が支度をしてアルバイトに行く頃には、既に日は高くのぼっていた。
週2回、4時間ずつの仕事。
学生時代にも経験のある仕事なので、仕事の手順は分かっているしある程度は出来るのだが、妙に疲れる。
社会復帰の為の第一歩。
仕事を辞めて自宅療養するようになって3ヶ月。
自宅にいれば母親の冷たい視線が突き刺さる。
いい加減、働きに出ろ、と。
桜が病院に通うようになってからも母親は、そんなのはあんたの気のせいで病気なんかじゃない、と言い続けていた。
すっかり怠け者の烙印を捺された桜は、主治医と相談の上、無理なく働きに出ることにした。
それが、週に2回、4時間ずつのアルバイト。
リハビリのようなものだ。


病が悪化するまで、桜は福祉施設の職員として働いていた。
昔から子供が好きだった。
此処で、ずっと。
彼らと共に、ずっといよう。
そんな思いは2年前の鬱病発症でまずつまずいた。
幸い上司が理解を示し、症状が軽かったこともあり、薬を飲みながら桜は仕事を続けた。
それで大丈夫な筈だった。
責任ある仕事を任されたりしなければ。
桜の精神は――つまり脳は、悲鳴を上げた。
動けない。
考えることが出来ない。
同僚や上司の目が怖い。
子供が怖い。
――そして。
あの、夏の朝。
桜は通勤電車の中で初めてパニック発作を起こした。
これがきっかけで、周囲から退職を勧められた。
極めつけは、先輩の一言だった。

「精神疾患で心が病んでいる人に、子供を預けたいという親なんか何処にいると言うの?」

小さな事業所。
病に倒れた職員を休職させるような余裕などない。
何も仕事をしないのに給料だけは支払われるという状況は、事業所にとって好ましい訳はなく、何より周囲が嫌がった。
だから、桜は仕事を辞めた。
辞めざるを、得なかった。


アルバイトを終えて帰宅すると、桜はまず昼寝をする。
アルバイトの前の日の夜はあまりよく眠れないことが多いし、仕事の諸々の疲れからか、熟睡出来る。
それから、夕飯を挟んで、編物をする。
かぎ針1つでモチーフを編んだり、棒針で帽子やセーターを編んだり。
編むのは好きだが繋げるのが面倒なので、パーツばかりが増えて行く。
最近は100円ショップで仕入れたレース糸で使いもしないコースターを編んでいる。
ガチガチに硬い肩や首にはあまり良くない趣味だが、編み図と首っぴきで夢中になって針を動かしていれば、嫌なことは忘れる。
例え、編んでいる間だけであっても。
その僅かな時間が、今の桜の救いになっている。



『病気自体は治っています』
心療内科の医師は言った。
……では、この疲れ易さと、仕事以外で外に出られない行動範囲の狭さは何だ。
まともに働けないのに、病気は治っている、とは。
『所謂、寛解という状態です』
――寛解。
完治、ではなく。
『この安定した状態を保ち、再発を防止する為に薬を飲まねばならない訳です』
……いつまで。
いつまで薬を飲まねばならないのだろう。
一生、だろうか。
『あなたの場合は《病》と呼べる程酷い訳ではないですから』
それは、桜も知っている。
自分の病は極々軽度らしいということを。
薬だって少ないし、薬代はそれほどかからない。
それでも。
献血には行けない。
他の病気で薬を貰う時には、飲み合わせの問題があるので医師や薬剤師に申し出なければならない。
そして。
処方された薬はずっと飲み続けなければならない。
その薬代を抑える為に、たまに役所にも行かねばならない。
――障害福祉課。
自分が世話になるとは考えもしなかった部署に。



朝起きて。
犬の散歩をして。
編み物をして。
本を読んで。
食べて、寝て。
――それが、日常。
一つ一つの動きは緩慢で、病む以前とは全く違ってゆっくりなのも苛々する。
自分自身が信じられない。
これでは只の穀潰しと変わらないではないか。
実家を出ることもままならず、働くことも出来ず。
『いいじゃないですか。動けない時は休んだ方がいいと思います』
……では、動けるようになるのはいつなのだろう。
生産性のない状態から脱却するのは。
元通り働けるようになるのは。


家を、出られるのは。



『あたしはね、あの子がまともに正社員になって、働けるようにならなきゃ困るって言ってるのよ。親はいつまでも元気じゃないんだから』
『仕方ないだろう、そういう病気なんだから』
『それならそれなりに楽な仕事に就けばいいのよ。とにかく何にもしないんだから』
『台所仕事でもさせればいいだろう』
『台所仕事させたってお金は入って来ないし、自立なんか出来ないのよ。全くいつまで家にいるつもりなんだか。普通はあの年だと独り暮らししてるでしょう。大体、休職も許されないような、組織としては駄目な所になんか勤めるからいけないのよ。退職金も殆どないし、あんな仕事だか遊びだか分からないような仕事……』
娘に対する不満をつらつら並べては父親に愚痴る母親。
そういえば、母親が満足しているのを見たことがない、と桜は思う。
学生時代にテストで90点をとっても。
偏差値の高い学校に行っても。
他人から賞賛されても。
母親には、まだ足りないようだった。
桜が何をしても。
どんなに他人から認められても。
一度たりともそれで母親が満たされているのを見たことはない。
もっと上。
もっと上を目指すよう言われ続けた。
しかし、人生の早いうちから、母親の期待に応えられないことを悟った桜は、あっさりドロップアウトした。
母親は激怒したが、父親が止めた。
『桜の人生は桜のものであって、君子のものじゃない』
と。
そして、今も。
父親は母親を抑えていてくれている。
これ以上、桜の病気を悪化させないように。
母親との関係を悪化させないように。



あの夏から、もうすぐ1年になる。







[ 1/5 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -