最後の小言


その日の夕方。
住宅地の中の小さな事業所に、ポツポツと人が集まって来ていた。
年度末、最後のスタッフミーティング。
この日勤務に入っていた千恵は、通常業務を終え、会議の準備に取りかかった。
とは言っても、空いたスペースに長テーブルを広げて、椅子を並べるくらいのものだ。
書類は上司が作っているから、気を回す必要はない。
従業員は10人足らずの小さな事業所。
今日のミーティングは年度末だというだけでなく、別の意味でも特別だった。
千恵に一から仕事を教えてくれた人が、今日で退職してしまうからだ。



小さな事業所の中では、人間関係も濃密なものになる。
千恵が新人の頃から、先輩の里美とは同じ勤務であることが多かった。
歳がかなり離れていたからか、千恵は随分可愛いがってもらっていた。
職場の中で、上手くやっていく方法。
スタッフとしての在り方。
仕事の仕方。
そういったことを、帰り道、よく教えてもらっていた。
また、悩みや愚痴を聞いてもらえる、有難い先輩でもあった。
駄目な時は叱ってくれたし、とにかく、千恵にとっては親鳥みたいなもので、よく後をついて歩いたものだ。
そんな大事な人が。
今日で退職してしまう。


ミーティングが始まる時刻。
上司が座るであろう上座を残して、他のスタッフ達は空いた席に思い思いに座った。
千恵の隣には、当たり前のように里美が座っていた。
議題は、人事のことと、来年度の予定。
退職者は2人。
1人は、ずっと病気療養していたスタッフ。
もう1人は、上司からも頼りにされていた里美。
今日で最後だから、言いたいことを言って下さい、という上司の言葉に、里美は口を開いた。


「私達の仕事は人が相手です。もっと、人をよく見て下さい」




……思えば、今年度は色々なことがあった。
千恵は里美の言葉をきっかけに、様々な事件を頭に思い浮かべた。
夏頃、急にスタッフが2人も辞めてしまったり。
秋の大きな仕事の際には、事業所の中でメインを張っているスタッフと上司の間に亀裂が走ったり。
冬の大きな仕事で、里美が珍しく声を荒げてスタッフを怒鳴りつけたり。
いつも事業所の片隅で細々と仕事をしている千恵の目には、そういったことがとても不安に映っていた。



「ちゃんと人を見て仕事をしていますか? 流れ作業のようにしてないですか? 正直、私の目にはそう見えることが多々あります」
凛とした、通る声が部屋に響く。
千恵は、じっと里美の横顔を見つめていた。
諦めた、と前に言ったことがあった。
来年度のメインのスタッフ達を鍛える為に、自分が抜ける前に何とか後継者を育てる為に、里美はこの1年、口を酸っぱくして小言を言い続けていた。
でも。
彼らは、言っても言ってもまた同じミスを繰り返す。
だから、諦めた、と千恵に呟いたことがあった。
事情があって、千恵は事業所でメインを張れる程には働くことは出来ない。
その一言は、千恵の身に染みた。
自分の至らなさを痛感し、申し訳なく思った。
「私達は、此処にずっと、1日何時間もいます。けれど、此処に来る人達はそうじゃない。貴重な時間を割いて此処に来て、いられる時間はほんの少しです。だから、私達は此処に来る人達に、毎回新たな気持ちで接しなければなりません」
――ずっと昔。
千恵が他人との接し方に悩んで、それだけで頭をいっぱいにしていた頃。
悩め、と言われたことがあった。
誰しも、自分は自分であって他人にはなれないし、自分らしく接することしか出来ないのだから、と。
そして、里美は笑った。
『色々、あらぁーな』
人と関係を作り上げる際には、色んなことがある。
何もない筈はない。
悩んで、足掻いて、格闘した先に、見えて来るものもあるのだから。
自分の仕事のやり方というものは、そうやって作り上げるものだから、と。
「各々、此処に来る人達とちゃんと向き合って、もう一度考えてみて下さい。彼らが何を考えているのか、何を求めているのか。こちらから押しつけるのではなくて、どうして彼らがそういう行動をとるのか、自分は彼らの行動の前後に一体何をしていたのか。それをよく考えて、彼らと接して下さい」
里美の声だけが部屋に響き、周囲はしんと静まりかえる。
里美の顔を見る者。
うつ向く者。
誰も声を発しない。



「自分の中にテーマを持って仕事をしていますか? 職場では、ただ皆で仲良く、だけでは、いつまで経っても向上しませんよ。分からなければ、自分でお金を払って学びに行くというのも1つの手だと思います」
いくら言っても分かってくれない。
彼らには言葉を受け止めるアンテナがない。
聞いた言葉を咀嚼しようとしない。
そんな後輩達に対して、「諦めた」けれど。
最後だから、言いたいことは言う。
この1年、自分が感じたことを。
伝えなければならないことを。
伝わらないとは思うけど。
それが、物凄く悔しいけど。
それでも、言わずにいられないのだと。
里美の叫びのような言葉に、千恵は胸が張り裂けるような痛みを覚えた。



スタッフミーティングを終えて、退職者への記念品贈呈なんてものがあって。
千恵は里美と連れ立って、事業所の建物を出た。
星のない、月ばかりが光る夜。
「――千恵、頼むね」
千恵は振り向いた。
「私は……いない日が多いから……」
そう言うと、里美は、千恵がいる日だけでいいから、笑った。

「だから、頼むね」

その言葉を残して。
里美は右へ。
千恵は左へ。
いつものように。
お疲れ様、と言って別れて行く。
里美の代わりなんてなれる訳はない。
あれほど仕事が出来て、信用を得ている、そんな存在に自分がなれるとは千恵には到底思えなかった。
それでも。
里美から学んだこと全てを仕事に生かして。
同僚達にも恐れずにぶつかって。
キャリアだけは無駄に長い自分に出来ることを、精一杯、やって行こう。
そう、心に決めた。



月の下、街路灯が光る住宅地の中のいつもの道を。
千恵は顔を上げ、まっすぐに歩いて行ったのだった。



(終わり)






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