鰯雲


この橋を渡れば。
この川を越せば。
そうしたら、あの人に会える。
それは、間違いのない事実。
けれど、私が橋の上を歩くことはない。
――否。
橋の上までは認められているが、向こう側に渡ることは叶わないのだ。
私は決してこの橋の向こう側に行ってはならない。
ならぬものはならぬのだ。
『近づいてはいけない』
或る日突然そう言われた。
何故なのか、未だに納得出来ない。
ただ顔を見て、言葉を交わしただけなのに。
1日に1度。
それが私の喜びで、生活の張り合いになっていたのに。
でも。
あの人は違った。
私の顔を見るのが苦痛だったのだそうだ。
何故嫌だったのだろう。
私の顔が醜いからだろうか。
私が何処に行っても爪弾きにされるからだろうか。
……分からない。
こんなに会いたいのに。
苦しいのに。
この橋を渡ってはいけないのだ。
私が渡ったら、またお母さんを苦しめることになる。
だから私は橋の袂に立ち尽くす。
川の向こう岸を見つめて。
雨の日も。
風の日も。



「ちあきさん」
1日に1度の散歩。
彼女はいつも此処で立ち止まる。
この橋の袂で。
そして、橋の向こうをじっと見つめる。
声をかけなければ、1日中此処にいるだろう。
「渡ってはいけないの」
詳しい事情はよく知らない。
けれど、いつも悲しそうな顔をしてそう呟く。
「お母さんが、辛い思いをするから」
彼女の母親はとうの昔に亡くなっていて、戸籍には彼女たった1人だ。
灰色の髪が風に揺れる。
「ちあきさん、行きましょう」
私が手をさしのべると、彼女の小さな手がそっと掌に載せられた。
「ホームに帰ったらお茶ですよ」
ゆっくりと、一緒に川沿いを歩く。
「今日は成田さんがお土産に買って来てくれたお饅頭ですね」
私は空を見上げた。
「ちあきさん、鰯雲ですよ」
指差した方角を彼女は眺める。
「大漁ですね、今日は」
冗談めかしてそう言うと、彼女の顔が少し和らいだ気がした。
暖かな日差しの中。
川の上を吹き抜ける涼しい秋の風を感じながら。
私達はホームに戻って行ったのだった。




(終わり)





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