珈琲さん


キッチンのラジオが7時を伝えた。
「マリちゃん、7時!」
私がセールスエリアのスタッフに声をかけると、彼女は慌ててブラインドを上げ、自動ドアのスイッチをいれた。
「きっと此処から見えない場所で待っていらっしゃるから」
毎朝、開店と同時にいらっしゃるお客様。
出勤前にこの店で必ず珈琲を飲んで行かれるのだが、店のスタッフに見つかる素通しの硝子の前では決して待っていらっしゃらない。
開店準備に追われる店の人間に気をつかわせたくないのだろう。
自分が待っているのが分かると、店員が慌てて早く店を開けることになってしまうから。
本当に有難いお客様である。
私達はこの方のことを、裏では親しみを込めてこう呼んでいる。


――珈琲さん。



セールスのスタッフが自動ドアのスイッチを入れると、すぐに珈琲さんは姿を現す。
注文はいつも珈琲だけ。
他のメニューには目もくれない。
珈琲さんに限らず、朝の常連のお客様は大体注文にパターンがある。
砂糖水のかかったドーナツと珈琲の方。
ソーセージの挟まったパイとカフェオレの方。
甘いマフィンと珈琲の方。
その時々に出る新商品と珈琲の方。
また、常連さん同士顔見知りな為か、1人が或る商品を召し上がると、つられて皆さんが注文されることもある。
その中でも、珈琲さんの存在は際立っている。
いらっしゃらない日はないし、いつも開店と同時にお店に入って来られるし、注文はいつも珈琲だけ。
――しかも。
「すみません」
キッチンで作ったはかり商品をショーケースに並べに行くと。
中肉中背のその方がカウンターの隅に立っていたりする。
目の前には、空になった珈琲カップ。
「す、すみませんっ!」
途端に品出しは中断し、セールスのスタッフに変わって私が珈琲のサーバーを手にとり、珈琲さんの前に行く。
すると、そっとカップを私の方にずらして下さる。
私は溢さないように慎重に、且つ手早くお代わりを入れる。
「ごゆっくりお召し上がり下さいませ」
このお店は珈琲やカフェオレのお代わりサービスがある。
お代わりは無料なので、時折セールスのスタッフがサーバーを持って客席を回るのだが、状況によってはなかなか行けなかったりする。
お代わりサービス目当てでじっと席で待っていらっしゃるお客様も多いので、朝のたった1人のセールスのスタッフはなるべく早く客席に行けるよう、他の仕事を手早く片付けてサーバーを持って客席に出て行く。
もっと言えば。
お代わりがあればある程、店の成績に加味される為、客席を回らなければ昼間のお局スタッフ達や店を取り仕切る社員に叱られる。
だから。
自らカウンターまでお代わりにいらっしゃる珈琲さんは有難い存在なのである。
本来なら、お客様の方からお代わりを申し出られるのは良いことではないが。
それでも、有難い存在である。
そして。
珈琲さんのお代わりは必ず1度だけ。
珈琲をカップで2杯飲んで、食器を返却口まで持って来られて、仕事に行かれる。
それが、珈琲さんの出勤前の習慣になっているようだ。



そんな、或る日。
「マリちゃん、7時!」
「は〜い」
セールスのスタッフがいつものように店を開け。
私もキッチンの作業の合間に、出来上がった商品をショーケースに並べにセールスエリアに出て行った。
「いらっしゃいませ!」
しかし。
……あれ?
客席には誰もいない。
「珈琲さん、来ないんですけど……」
セールスのマリちゃんが、困ったような顔をした。
「……珍しいねえ」
私は硝子越しに店の外を眺めた。
――来ていない。
「仕事が休みなのかなあ」
「たまたま遅いだけかも知れないよ」
時刻はまだ7時を5分過ぎた頃。
首をかしげながらも、私はキッチンに舞い戻り、マリちゃんはお店にやって来た常連さんの接客を始めた。



ところが、この日。
私達が気を揉んでいたにも関わらず。
8時になっても。
9時になっても。
珈琲さんは、来なかった。



――翌日。
「マリちゃん、7時!」
「は〜い」
そんなやりとりの数分後。
私が品出しに行こうと商品を並べたトレイを持ち上げたところで、マリちゃんがキッチンに飛び込んで来た。
「珈琲さん、来ましたっ!」
「ええっ?!」
私はトレイを持ってセールスエリアに出て、さりげなく客席を眺めた。
――いた。
いつもの席に珈琲さんが座っていた。
ほっと胸を撫で下ろしキッチンに戻ると、マリちゃんも私について来た。
「珈琲さん、変なこと言うんです」
マリちゃんは言葉を続けた。
「私、心配だったから聞いたんですよ。昨日いらっしゃらなかったですけど、お休みだったんですかって」
「聞いたの?」
お客様によくそんなことが聞けるなと内心思いながら、それは黙っていたのだが。
マリちゃんは頷いて、言った。
「そしたら、昨日も来た、って……」
……は?
「嘘だあ! だって……」
「いなかったですよね?! だから来た時間が遅かったのかなあと思ったんですけど……」
マリちゃんは更に困ったような顔をした。
「いつもの時間にいた、って……」
私が何も言えずにいると、マリちゃんが畳みかけるように言った。
「変ですよね?! だって私もナミさんも他の人も、誰も珈琲さん見てないじゃないですかっ!」
「変装してた、とか……」
「昨日も朝は常連さんばっかりです!」
……そうだった。
そして。
マリちゃんはセールスエリアに戻り。
私はキッチンの仕事をこなしながら、ショーケースに商品を並べに行き。
バタバタと動き回っていると、いつものように珈琲さんがお代わりにやって来た。
「あ、すみません!」
マリちゃんに代わって私が珈琲を注ぐと、珈琲さんは言った。
「そう言えば、昨日は貴方はいませんでしたね」
……は?
「お休みだったんですか?」
……へ?
「お2人共いなかったですよね」
……2人共いなかった?
いや、いましたけど……と言えずに曖昧に笑っていると、珈琲さんは御自分の席に戻って行った。
「……」
私は、接客を終えたマリちゃんと思わず顔を見合わせた。



「――あ〜、昔の店に行ったんだね」
見回りに来た部長が言った。
彼は、昔この店の店主だったらしいのだが、今では出世して立派な管理職である。
「昔の店って何ですか?」
現店主が尋ねると、部長が教えてくれた。
――つまり。
私達のお店は、30年も前からこの場所にあるのだが、15年くらい前に大がかりな工事が行われたのだという。
それが今の店なのだが、店が入っているビル全体の工事も行われた為、店は長期休業となり、スタッフはほぼ総入れ替えとなったのだそうだ。
「当時はね、朝のスタッフに歳いってる人が多かったんだよ」
部長は懐かしそうに話した。
「何しろ開店当時からいた人ばっかりでね、子育てがとっくに終わってから働きに来てたから、改装時にいい加減歳だからって辞めて行ったんだよね」
部長は言葉を続けた。
「社員よりも仕事出来る人ばっかりでね、遅刻なんか絶対にしなかったし、お店開けるのも時報と同時だったしね……」
……耳が痛い。
ラジオのDJが「只今7時をまわりました!」と言うのを聞いてから店を開けている我々である。
「だから、店開けるのが古い店よりもちょっと遅いとお客さんが古い店の方に迷い込んじゃうんだよね」
「……え?」
「朝の常連さん達に聞いてごらん。すっごく昔からのお客さんだと、古い店に行っちゃった経験のある人、結構いるから」
「え……」
……怖くて聞けません、そんなこと!
あとね、と部長は言った。
「朝のスタッフが昔の店に出勤しちゃって、今の店に来なかったこともあったんだよね〜。昔のスタッフ達にしごかれて、真っ青な顔して帰って来てたよ〜」
気をつけてね〜、と部長は笑った。
その場にいた人間は顔面蒼白。
「……俺、不足が出ても朝は絶対入らねえ」
店主の呟きに、私とマリちゃんは激怒した。
「社員が不足埋めなくてどうするんですかっ!」
「だって怖いし」
その言葉に、部長はにこにこ笑った。
「あ〜、木下は遅刻魔だから、昔の店に行っちゃうかもね〜。で、帰って来られなかったりして」
「……」



――次の日から。
朝のスタッフ達は誰も寝坊しなくなったし、どんなことがあっても時報の前に店を開けるようになった。
「マリちゃん、大変!2分前!」
「はいっ!」
どことなく7時が近づくと、2人共顔が青ざめて来るのは……気のせいだろう。多分。


そして、今日も。
いつものように珈琲さんが颯爽と店に現れて、言うのだ。
「珈琲下さい」
と。







(終わり)






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