冷たい雨。
寺には人が続々と集まって来ていた。
立ち上る線香の煙。
響き渡る読経。
規則的な木魚の音。
人々のすすり泣く声。
黒ずくめの衣。
祭壇には沢山の花と、青年の写真。
脇には今にも崩れ落ちそうな両親と親族が控えている。
幸(さち)は部屋の片隅で、焼香の順番を待っていた。



初めて会ったのは、10年前。
光(ひかる)はまだ小学生だった。
確か、友達が絵を習っていることを聞いて、興味があったのか、見学に来たのだと思う。
人見知りするのか、幸がいくら話しかけても顔を真っ赤にして友達の隣でうつ向いていたのを覚えている。
それでも、翌週から当たり前のように絵画教室に通って来るようになった。
慣れて来ると、普通に幸とも話すようになり、時折手作りのお菓子を持って来て、教室の人間に振る舞うようにもなった。
器用な子だった。
男の子なのに珍しいなとは思ったが、いい趣味だと幸は思った。
そんな、或る日。
教室を開いている時間が長く、生徒の指導に追われて夕飯がなかなか食べられないことを冗談めかして話したら、その翌週、光はお弁当を作って来てくれた。
おにぎりと、玉子焼きと鶏の唐揚げ。
時間のない幸が、裏で簡単につまめるようなものばかりだった。
非常に美味ではあったが、毎週持って来るような勢いだったので、さすがに本人や保護者と相談し、幸にお弁当を持って来たら回数に応じて月謝を割引くことにした。
光は嬉々として毎週幸にお弁当を渡し、幸は光が来る日はお腹を空かせずに済んだ。
だから、てっきり料理の道に進むのかと思っていたら、光は高校卒業後に他の分野の会社に就職した。
歳を重ねるにつれ、通って来る時間はだんだん遅くなったが、それでも毎週幸にお弁当を届けつつ、彼は黙々と絵を描いていた。
「いいなあ、光君の彼女。デートの度にお弁当作って貰えて」
そんなことを幸が言うと、光はぼそっと呟いた。
「作んねーよ」
光は中学に上がった頃から、学校では料理好きな部分を見せなくなっていた。
「しょーがねーだろ。先生料理出来ねーし」
確かに幸は絵筆を包丁に持ち替えると、救いようもない程に駄目だった。
そして。
光は、たまに出来る彼女には全く料理の腕を披露することなく、幸の前でだけ惜しみなくその才能を発揮し続けた。

――先週まで。



別れは突然だった。
光は絵画教室から帰宅後、普通に就寝したのだが、朝全く起きて来ない息子を心配した母親が部屋に入ってみると、布団の中で冷たくなっていたらしい。
解剖しても、原因不明。
突然死だった。
幸は祭壇の写真を見つめた。
もう二度と、言葉を交わすこともない。
キャンバスに向かう姿を目にすることもない。
料理を口にすることもない。
あの、はにかむような笑顔を見ることもない。
見るのも辛くなる程に弱ってしまった光の両親を心配しながら、幸は寺から出て行く霊柩車をじっと見送った。



暫くして、母親から連絡があった。
絵画教室に置いていた道具や描きかけの絵を取りに来ると言う。
教室を開ける前に母親はやって来た。
挨拶の後、母親が鞄の中から出して見せてくれたものは。
絵画教室用の、お弁当日記。
作ったら必ずポラロイドで撮影し、簡単なメモと共に記録された日記。
そして。
「……自分のお弁当は忘れても、先生のお弁当だけは忘れなかったんです」
竹で編んだお弁当箱と、漆を塗ったわっぱ。
これは先生に差し上げます、と言って、母親は荷物と共に帰って行った。
幸は独り教室の椅子に腰かけ、近くの机にお弁当箱を置き、ノートをめくった。
ポラロイドは料理と入れ物と両方を写していた。
最初の頃は、家にあったのであろう、透明なタッパー。
それが、何処かで購入したらしいプラスチックのお弁当箱を幸専用に使うようになり。
就職してからは、また何処で購入したのか、おにぎりやサンドイッチは竹で編んだお弁当箱に。
おかずは漆を塗ったわっぱに入れるようになった。
箸は流石に幸が自分で用意していたが、竹やわっぱにお弁当箱が変わった時に、光から渡された。
お土産だと言って。
お弁当は毎回、光が来てすぐに渡され、彼が帰るまでに幸は食べて洗って箱を返した。
週に1度。
それが10年近く続いた。
光は社会人になり。
幸は三十路を越えてしまった。
未だ独身の幸に生徒達が突っ込む度に、料理がまるで駄目で嫁に行けない、と笑ったら、光は言った。
「大丈夫だよ。40になっても結婚出来なかったら俺が貰ってやるから」
すると、
「光君が婿に入る、の間違いだろっ!」
「ヘタレのくせにっ!」
と、教室中から突っ込まれた。
光にはすっかり『幸先生のお弁当係』なる、おかしな通り名までついていた。
お弁当係。
――お弁当係?
本当に只のお弁当係だったのだろうか。
『自分のお弁当は忘れても、先生のお弁当だけは忘れなかったんです』
――そう。
病欠以外で休んだ日はなかったし、出席した日でお弁当を作らなかった日はなかった。
どんなに仕事が忙しくても。
幸が心配しても、大丈夫だとしか言わなかった。
『しょーがねーだろ。先生料理出来ねーし』
『40になっても結婚出来なかったら俺が貰ってやるから』

――あの言葉は、まさか。

ぽたり、とノートに水の滴る音がした。
幸は椅子の上で膝を抱えて泣いた。



「先生っ?! その手、どうしたのっ?!」
手のあちこちに貼られた絆創膏に、生徒達は目を丸くした。
「いや、ちょっとね……」
ははは、と幸は笑った。
慣れない台所仕事をしたからだ。
その成果は、裏にスタンバイしている。
形見のお弁当箱と共に。
あまりの手際の悪さに、隣から母親がかなり手を出したのには閉口したが。
幸は窓から夜空を眺めた。
雲1つなく、晴れている。
お弁当も毎日作っていれば、そのうち手の絆創膏の数も減って行くだろう。
もう、お弁当係は置かない。
だから、大丈夫。
大丈夫だよ。
心の中でそう呟いて。
そしてまた、幸は生徒達の指導に戻って行ったのだった。




(終わり)






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