椿姫


住宅地の片隅に、その家はあった。
生垣に囲まれた、木造平屋建ての小さな家。
白髪の上品な老婆が独りで暮らしている。
子供達はとうに独立し、夫に先立たれ、もう何十年も、独り。
その、小さな家の小さな庭は、彼女が丹精込めて手入れをした花が植えられ、訪れる人の心を和ませる。
その一角。
背の高い椿の木が1本、凛として立っている。
いつの頃に植えられたものか定かではないが、春には美しい花を咲かせる。
大きな、真っ赤な花を。



――町内の独居老人を近所の者で見守ろう。
そんな話が持ち上がり、我々は隣近所の独り暮らしのお年寄りを見回ることになった。
健康状態や食事の状況を聞いたり、はたまた世間話に興じることで、少しでも彼らの心から不安を取り除くことが出来たら。
そんな思いで、私も隣の椿の家を今日も訪れた。
「井上さ〜ん、おはようございま〜す」
玄関の引き戸をガラガラと開けて、声をかけてみたのだが。
――応答が、ない。
不安になって、庭に回り、縁側から覗いてみることにした。
珍しく、硝子戸が開いている。
普段は炬燵のある6畳の茶の間。
しかし。
炬燵もテレビも茶箪笥も上から吊るされた蛍光灯も、其処にはなく。
ただ、赤い椿の花が幾つも散らばっていた。


「い、井上さん?」
私は慌てた。
きょろきょろと辺りを見回すが、誰もいない。
何かあったのだろうか。
と言うか、本当に此処は井上さんのお宅なのか。
門の所まで戻ってみれば、確かに此処は井上さんの家だ。
隣は我が家。
間違いない。
縁側に戻れば、畳の上にはただ椿の花が置いてあるだけ。
「井上、さん。ちょっと上がらせてもらいますよ」
座敷に上がろうと、縁側に足をかけた瞬間、ふわっと暖かな風が吹き、椿の花が動いた。
座敷の奥。
薄紅色に大きな椿が描かれた振袖。
椿の刺繍衿をたっぷりと出し、金糸で織り出した帯に椿の帯留。
黒髪を高く結い上げ、椿の簪を挿した、見知らぬ若い女性が座っていた。



「いつもありがとうございます」
女性は、私に向かって頭を下げた。
……いつも、ありがとう?
「あの……」
私が言い澱んでいると、女性は微笑んだ。
「あなたにも、あなたのお父様にも大変お世話になりました」
「父にも?」
私が幼い頃に死んだ父。
写真でしか知らぬ父。
「私は、迎えに来てくれるのを、ずっと待っていたのです」
風が椿の花をまた動かした。
「でも、お金の為に私は他の人の元に嫁ぎました」
生ぬるい風がまた吹いた。
「經一さんも別の方をお嫁さんに貰いました」
椿の花が少しずつ、また少しずつ移動して行く。
「ずっと会うことはなかったのに、あなたが私の家の隣に引越して来た」
ゆらりと目を上げて。
「死ぬほど驚きました。あなたは經一さんにそっくりだから」
確かに私は、あの頃父の若い頃にそっくりだと言われたし、写真を見る度に鏡を見ているような気分になった。
「名前を聞いて、確信しました」
――寒河江一真(さがえ・かずま)。
「經一の『一』と真砂子の『真』で、一真。私達の間に子が生まれたら、一真と名付けようと話していましたから」
私の知らぬ、名前の由来。
「あの人は私のことを忘れてはいなかった。心が震えました」
でも、と彼女は言葉を続けた。
「それはあなたのお母様にとっては裏切りと同じ。何ということをしたのだろうと、同時に胸が痛みました」
声が震え、涙が頬を伝った。
「でも、そんなあなたが毎日家を訪れてくれることが、本当に嬉しかった」


――ありがとう。


彼女はそっと涙をぬぐい、ふわっと微笑んだ。
次の瞬間。
強い風が吹き、椿の花を吹き飛ばした。
風がおさまり、顔を上げると。
部屋には畳があるばかりで、椿の花も彼女も消えていた。
思わず振り返ると、庭の椿は満開だった。
真っ赤な花が咲き乱れ、艶やかな血の色に見えた。



私は帰宅するなり発熱し、寝込んだ為、翌日は妻が隣を見に行き、布団の中で亡くなっている井上さんを発見した。
隣はにわかに騒がしくなり、帰って来た妻が言った。
「庭の椿が枯れていたのよ」
――椿。
座敷の上に、散らばった椿。
私は呟いた。
「母さん、元気かな」
「何言ってるの。お義母さんは昨日から由紀子さんの家に泊まっていて、今朝も早くから由紀子さんの家の掃除に精を出しているって電話があったじゃないの」
普段は田舎で独り暮らしの母も、時折、近所の妹の家に泊まっている。
母は私の名前の秘密を知っていたのだろうか。
何も言われたことはないけれど。
「ちょっとまた、隣を手伝って来るわね」
そう言って妻はまた慌ただしく家を出て行き、私は溜息をついて目を閉じた。
流石にこの年になると発熱は身体に堪える。
父が、迎えに来たのだろうか。
椿姫を。
そして。
あれは現実だったのか。
私は寝返りをうち、布団をかぶった。
すると。
窓から、春の暖かい風が吹き込み、椿の花が畳の上に1つ落ちて来て、消えた。
椿姫の別れの挨拶に思えた。
さよなら、と小さな声で呟いた。




(終わり)







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