珈琲の香り


胃が痛い。
腰と肩と首の凝りが酷い。
……吐きそう。
それでも仕事には行かねばならない。
相性が悪いのか、ほとんどコミュニケーションがとれない上司がいる職場へ。
このところあまりの眠れなさに毎晩薬を飲み。
それでも常に気分は悪い。
身体を引き摺るように皐月(さつき)は家を出た。


自分が常に一番で。
他人にもある一定のレベルを求め。
自分が出来るのだから他人も出来る筈、と人には能力差があることを理解せず。
そのレベルに至らない人間のことを馬鹿呼ばわりするどころか、
「死ねばいいのに」
そう普通に言う上司。
やり手だから、会社の評価は高く、よって年齢は皐月よりも5歳は若い。
上司は春に皐月の部署に異動して来たのだが、ずっとコミュニケーションがとれないままきてしまった。
それでも仕事には支障はなかったのだが、皐月が珍しく仕事でミスをしたことがきっかけで話がこじれてしまい。
それ以来、皐月は薬を飲まずには眠れなくなり、食欲が落ち、精神的に追い詰められている。


「三上さんのせいじゃないよ」
「自分を追い詰めないで」
同僚達はことあるごとに言ってくれる。
「辞めるなんて言わないで」
泣きそうな顔で言った同僚もいる。
こんな木偶の坊な私でも、認めてくれる仲間がいる、この職場を去りたくはない。
愛すべき仲間達と、これからも此処で働いていきたい。
だから。
皐月は上司と話をしてみようという気持ちになっていた。
話がこじれた原因は、コミュニケーション不足があると思ったからだ。
仕事では明らかに上司の方が上でも。
生きてる年数は自分の方が上なのだ。
ここは自分から動くしかない。
退職の二文字を胸に、皐月は会社の入口を通った。


――と、クビ覚悟で出勤してみれば。
今日はあまりの忙しさに職場は戦場と化していて、話どころではない。
よって、残業。
どうにもならない。
既に時計は夜の8時をまわっている。
皐月も含めて、みんな疲れ果てていた。
きりがないので、一息つこうということになり、喫煙者は煙草を吸いに部屋を出て行き、買い出し部隊は夜食を調達に行き。
部屋に残ったのは。
――皐月と上司の2人だけ。
何故こうなる?!
仕方ないので、給湯室に逃げ込んだ。
話なんか本当はしたくない。
……でも。
皐月は戸棚からカップを2つ、取り出した。
丁寧にドリップで珈琲をいれる。
お盆の上に、珈琲を2つと、皐月も上司も普段はブラックでしか飲まないのだが、念の為に砂糖とクリープをのせて部屋に戻った。
「……どうぞ」
その言葉に、上司ははっとして顔を上げた。
「砂糖、つかいますか」
「……そうですね」
上司はスティックシュガーを1本、カップにいれて、スプーンでかきまわした。
……この人も、疲れているのかも知れない。
部下の不始末は全て自分に回って来るのだから。
皐月は自分の席に座ってカップを手に取った。


珈琲の香りが部屋に漂い、少し頭がほぐれた頃。
「三上さん」
机に置かれたのは小さな一口サイズのチョコレート。
振り返ると、いつの間にか上司がカップを持って、皐月の隣に立っていた。
「今日はろくに昼も食べてないんじゃないんですか」
国枝さんが言ってたんですけど、と言葉が続く。
食べられないのは今日に限ったことじゃない。
このところ、ずっとそうだ。
朝も、昼も、夜も。
それはともかく、机の上に置かれたチョコレートをこのままにしておく訳にはいかない。
「頂きます」
そう言って、包みをほどいてチョコレートを口に入れる。
じんわりと甘味が広がって行く。
「食べていない訳じゃないです」
「クッキー2、3枚と珈琲だけっていうのは飯じゃないですよ」
それ以上食べたら吐きそうになるので、とは言えない。
「家に帰ってから食べます」
上司は隣の席に腰かけて言った。
「国枝さんが言ってました。ほとんど食べていないって」
「彼女が知らないだけです」
「嘘ですね」
皐月はカップを抱えたまま、ゆっくりと首を振った。
「そんなことはありません」
「嘘です」
ほんの少し、いつもフラットな上司の声に感情が混じっているような気がした。


「俺が信用出来ないんですか」
皐月は眉をひそめた。
「そんなことはありません」
何故、そんな話になるのだろう。
分からない。
「昔、あなたはよく笑っていたのに、俺がこの部署に来てからただの一度も笑顔を見たことがない」
「それは、仕事に真面目に取り組むようになったからだと思います」
「違う」
目の前の男は最早上司の仮面を脱ぎ捨てていた。
「青二才の俺が信用出来ないんでしょう」
「いいえ」
「じゃあ、何で心療内科に通っているのを言わないんです!」
皐月はカップを取り落としそうになって、慌てて机の上に置いた。
「何故、それを……?」
誰にも言っていないのに。
「この前、見たんです。あなたが病院から出て来るのを」
「眠れないので睡眠薬だけ頂いているだけです」
動揺する心を悟られまいと、皐月は笑ってみせた。
「だから、大丈夫です」
しかし。
「……俺は見てられない」
目の前の男には効果はなかった。
「入社当時から、あなたに憧れていました。三上さんと国枝さんは会社の二大スターですけど、俺はずっと三上さんのファンでした」
彼は言葉を続けた。
「いつも雰囲気が柔らかくて、それでいて仕事が出来る。いつか同じ部署に配属されるようになりたいってずっと思ってました」
だから。
「辞令が出た時、すげー嬉しかったんです」
――なのに。
「俺が此処に来てから、あなたは笑わなくなったし、顔色も悪くなったし、みるみる痩せた」
何かを堪えるように、彼は言った。
「俺のせいですか」


「俺のせいじゃないんですか」
皐月は首を振った。
「私が至らないだけです」
そう。
ただ、自分が上司の求めるレベルにないというだけだ。
「だから、そんなことはおっしゃらないで下さい」
「三上さん」
彼の目が赤いのは寝不足や疲れだけではない筈だ。
「ただ、求められているレベルに私が追いつかないだけです」
「そんなことない」
彼は言った。
「あなたはよくやってくれていると俺は思います」
「でも」
「あなたは自分に負担をかけ過ぎる。抱え込み過ぎる」
「そんなことは」
「もっと頼って下さい」
彼は赤い目で言った。
「俺が仕事で厳しくしているのは、自分に甘い奴に対してです」
本当だろうか。
どうにも信じがたい。
「それが何故あなたを苦しめるのか分からない」
唇を噛んで、声を振り絞るように彼は言う。
皐月は目を閉じてから、ゆっくりと開けた。
「人間には個体差があります。能力の違いというのは絶対にあります」
静かに、言葉を紡いで行く。
「此処にはやる気のない人は誰もいません。みんな、必死について行こうとしているんです」
彼から視線を逸らさずに。
「風間さんは優秀な方だと私は思います。でも」
言葉を少し切って。
「風間さんにはすぐ出来ることでも、私達がそれを出来るようになるには、何倍もの努力が必要なんです」
他の人間も同じことを言っている筈だ。
彼が理解するかどうかは分からない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「やる気がないような態度をとっていても、上司の陰口をたたいていても、その裏でみんな努力しているんです」
だから。
「私を含めて、みんながついて来られるように、もう少し待って頂けますか」
子供に言い含めるように。
「人が変わるのにはとてつもない時間が必要なんです」
少し間をおいて。
「相手に変わって欲しいと願うなら、自分も変わろうと努力しないと、難しいですよ」
皐月は微笑んだ。


悩んでいたのは自分だけではなかった。
それだけで十分。
皐月はゆっくり立ち上がった。
「おしぼりを持って来ます」
その途端。
男が手首を掴んだ。
「逃げないで下さい」
必死に言葉を紡ぐ姿に、笑ってしまった。
この人はこんなに余裕がない人だったのか。
「逃げる訳じゃありません。もうすぐみんな帰って来ますから、その赤い目を誤魔化さないとまずいんじゃないんですか」
悪戯っぽく笑って、するりと手をはずしてまた給湯室に行き、タオルを濡らして部屋に戻った。
彼は自分の席に戻っていた。
折り畳んだおしぼりを、そっと彼の目の上にのせる。
「……会社、辞めるなんて言わないで下さい」
「辞めませんよ」
「飯も食べて下さい」
「食べたくなったら食べます」
「駄目です」
「無理が一番良くないと思います」
「明日、昼飯食ってないようだったら、粥食わせに店に連れて行きますからね」
「私は要領が悪いので、昼も仕事しないと間に合いません」
「買って来ます」
「……お粥を?」
「目の前で食べてるところを見ないと安心出来ません」
「吐いたらどうします」
「全部食えとは言いません」
いつの間にか。
お互いを隔てる障壁はなくなり。
皐月の中で燻っていた不快感も消えている。
「病院、俺も行きます」
「子供じゃあるまいし。1人で大丈夫です」
「心配なんです。あなたが壊れてしまう気がして」
「壊れないから平気です」
「でも、ついて行きます」
皐月は笑って誤魔化した。
席に戻って珈琲を飲んでみれば、少しぬるくなっていた。
今晩は薬なしでも眠れるなあ。
そう思った。


「たっだいま〜」
買い出し部隊が帰還し、同時に喫煙者達も戻って来た。
「あ〜! いいな〜! 私も珈琲!」
「俺も!」
「あたしも!」
皐月はやれやれ、と腰をあげ、人数分の珈琲をいれるべく、給湯室に向かった。
今日は何時に帰れるかしら。
そんなことを思いながら。
皐月はそっと微笑んだ。
まだ、大丈夫。
きっと、大丈夫。
そのうち、睡眠薬の回数も減るだろう。
そして。
皐月は慎重に人数分の珈琲をいれ始めた。
立ち上る珈琲の香りに包まれながら。




(終わり)







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