秘色──さくら園2


梅雨を迎えた頃。
一葉(かずは)の家では少々困った事態に直面していた。
「……何で?」
母親の話を聞いた一葉の第一声がこれだった。
「分かんない」
母親は溜息をついてお茶をすすり、こう続けた。
「だから、ちょっと家に連れて来てシャワーだけでも、って思って」
「それはいいけどさ、何でこうなっちゃったの?」
「さあねえ。こういうことって教えてくれないからねえ」
「ああ……まあ、都合の悪いことは言わないよね」
「でしょう? かと言って姉さんが説明出来るかって言ったら説明出来ないしねえ」
「そうだね……」
一葉の母には諸事情あって今まで独身を通して来た姉が1人いる。
特別養護老人ホームに暮らす光子(みつこ)である。
脳梗塞で身体に麻痺が残り、少々認知症の症状もある彼女は元々対人関係に問題があり、会話が苦手なこともあって友人もおらず、親しい人間は身内しかいない。
脳梗塞で倒れる以前は実家の片隅で兄夫婦に遠慮してひっそりと暮らしていた光子だが、病で麻痺が残った為、兄嫁と折り合いの悪い光子は施設に入所するまで近所の一葉の家で暮らしていた。
主たる介護者は一葉の母親、つまり光子の妹である。
その為、母親は時折施設に姉の様子を見に行ったり、職員のケース会議にも参加したりするのだが。
今日も様子を見に行った際、職員に言われたのは。
「この10日、お風呂に入って下さらないんです」
施設では1日おきに入浴の機会が設けられ、その他の日は身体を拭くことになっているのだが、光子はずっと入浴を拒否して清拭ばかりなのだと言う。
原因に関しては言葉を濁す職員と、その説明が出来ない当事者の光子の話を総合し、母親の出した答えは。
「何か、お風呂で怖い思いをしたらしいのよね」
「だから、その『怖い思い』って何」
「分かんない」
「まさか……転倒?」
「転んだ訳じゃないらしいのよ」
とにかく、これから迎える季節を考えると多少なりとも入浴の機会は必要なのだが、施設で入浴出来ないのなら家に連れて来るしかない。
「姉さん、うちならいいって言うし」
「帰りたいのもあるんじゃないの?」
「それはそうだけど。でも、他は何の問題もないから」
食事はきちんと摂るし、水分補給も欠かさない。
排泄も部屋の簡易トイレなら介助なしで行える。
出無精で、部屋でゴロゴロしていることが何よりも好きだが、気が向けば車椅子で散歩にも行く。
「おかしいよねえ。元々お風呂はあんまり好きじゃなかったのに、今までは言われればちゃんと入ってたのよ?」
母親に言われるまでもない。
一葉は不思議に思った。
伯母自身、入浴が苦手であっても、それが必要なことは分かっている筈だ。
けれど。
それを拒否する『何か』があった訳だ。
――あの中で。



以来、光子は施設で入浴はしていない。
時折、母親が車で光子を家に連れて来てシャワーだけさせて、すぐに施設に戻している。
――もう秋だというのに。
一葉は祖母のお古の単衣を纏って、施設の廊下を歩いていた。
母親の代理で、光子の見舞いに来たのである。
伯母の暮らすエリアの食堂には、数人の入所者と職員がお茶の時間を楽しんでいたが、光子の姿はない。
……また部屋で寝てるのかな。
それはすぐに想像がついたのだが、それよりも気になったのは。
……また職員の顔ぶれが変わってる。
見舞いに行く度に職員が変わっていて、1人として同じスタッフに会った試しがない。
勿論、職員は変則勤務で一葉と入れ違いになっていることもあるのかも知れないが、内部の移動や、辞める人間も多いらしい。
或る意味新鮮でいいのだが、落ち着かないことには変わりない。
そんな思いを抱えつつ、一葉は何くわぬ顔で職員に挨拶をしてから光子の部屋を訪れた。
「みっちゃん、元気?」
一葉がドアから顔を覗かせると、光子の顔が少しだけ和らいだ。
「ああ、一葉」
ベッドの脇の椅子に一葉が腰かけた時、職員が小さなトレイに珈琲を2つ並べて部屋に持って来た。
ちょっと甘いかも知れませんが、と一葉には言い、光子にはこう言った。
「南雲さん、お茶半分しか飲んでなかったですから、これも飲んで下さいね」
そう言って職員が引き上げて行き、一葉がちらっとカップの中を覗いてみると。
――カフェオレ色。
「……甘そうだね」
そう言うと、光子は頷いた。
一葉は珈琲はブラック派である。
カフェオレとかカフェラテといったものも外ではよく飲むが、目の前のこの珈琲は明らかに一葉の好む飲み物ではない。
インスタントコーヒーに粉末状のミルクと砂糖を溶かした飲み物。
インスタントコーヒー自体は決して嫌いではない。
面倒な時はこれが一番だ。
しかし、このミルクと砂糖が問題なのである。
内心溜息をついたが、一葉に出されたこの珈琲は職員の善意によるものであるか、或いは光子に水分補給をさせる為に一緒に飲んで欲しいという意味合いのものだ。
飲まない訳にはいかない。
「お茶の方がいいんだけどね」
珈琲を飲む習慣のない光子がぼそっと呟いた。
「甘いお茶って嫌だよね」
一葉の言葉に光子は頷く。
「お茶がいいんだよお茶が」
「まあ、みんな同じものを飲まなきゃいけない訳だしね」
一々人によってお茶を変えるのも提供する側は大変だし、栄養士からお茶の種類も指示されているのだろうし、とお腹の中で一葉は思う。
それに、光子は嫌いなものであっても全く飲まない訳ではないので、甘い珈琲等は施設側では問題にならないのだろう。
光子はゆっくりと起き上がり、ベッドに腰かけた。
……暫くこの部屋にいても大丈夫ってことか。
最近、光子は一葉を追い出さなくなった。
以前は光子の見舞いには15分くらいしかいた試しがなかったのだが。
このところ、一葉が見舞いに行くとわざわざ起き上がって話をするようになった為、1時間くらいもつのである。



「最近、お散歩とか行かないの?」
「行かない。面倒くさい」
「ああ、車椅子だから?」
「そうそう。若い頃はよく行ったけど。伊勢丹とか三越とか」
「電車に乗って?」
「そう」
「家から駅まではバスでしょう?」
「そうよ」
「駅にもデパートあるのに」
「あんまりないから」
「ああ、そっか……。じゃあ、電車で伊勢丹とか三越とか行くでしょ、そしたら何買うの?」
「服買うの」
「地元じゃ買わないんだ」
「あんまりいいのがないから」
シマムラ、ユニクロ、無印、リサイクルショップを贔屓にしている一葉にはいまいち理解出来ない理由である。
「箪笥にいっぱいあるもんね……服が」
「そうそう。バーゲンとかに行って買うの」
「バーゲン?! あの人混みの中で服買うの?!」
「安いから」
人間嫌いに見える伯母とも思えぬ発言である。
「混んでても大丈夫なの?」
「別に。バーゲンじゃなくても普通の日でも行くし」
「よく行ってたんだ」
「必ず父親に言わなきゃ駄目なの。でも、言えばいつでも行って大丈夫なの」
「それは若い娘が1人で遠出するのがお祖父ちゃん心配だったからじゃないの?」
「でも言えばいつでも行っていいの。その代わり、言わなきゃ駄目なの」
「勝手に行ったらいけないんだ」
「そうそう」
若い頃から誰かと一緒に行動することがなかった伯母である。
他人と何処かに行くと神経をすり減らし、疲れてしまうから嫌だというのは一葉にも何となく理解出来る。
……白いポロシャツ1枚買うのに4時間も引き回されたからなあ。
一葉も昔友人と行って懲りたことを思い出した。
コミュニケーションが苦手な伯母には尚のことだろう。
「伊勢丹と三越では服しか買わないの?」
「食べるものも買うの」
「ああ、何か食べて帰るんだ」
「違う、家で食べるの」
「デパ地下ね」
一葉は頷いた。
伯母にとって、家の外で独りでお茶を飲んだり御飯を食べたりするのは、あり得ないことである。
お店に独りで入る度胸もないし、第一、恥ずかしいらしい。
「デパートの食品売場で美味しいものを買って家で食べるのね」
「そうそう」
「みんなの分も買って帰るの?」
光子は首を横に振った。
自分に甘かった祖父母が亡くなると、兄夫婦とは同じ屋根の下にいながら食事が全く別の独り暮らし状態だった伯母である。
祖父母がいた頃もこうだったなら、病に倒れる前もこういったことが当たり前だったのだろう。
それでいて一葉の家には何かと美味しいものを買って来てくれていたのは。
……寂しかったんだろうな。
一葉は光子には分からぬようお腹の中で呟いた。



「そういえば、お風呂っていつ入ってるの?」
「1日おき」
「1日おき? 大変だねえ。みっちゃんも入るんだ」
「そうそう」
「ふうん。じゃあ、最近いつ入ったの?」
「昨日」
「そうなんだ」
しかし、光子の髪は何処となくしっとりしているし、視界の隅の薄い水色のシャンプーハットに使った形跡がないのは明らかだ。
内心溜息をついたが、顔には出さない。
「じゃあ、今日はお風呂じゃないから身体拭くんだ」
「そうそう」
このやりとりを聞いたら、また母親ががっかりするだろうな、と一葉は思った。




伯母の部屋を辞した一葉は食堂にいた職員2人を捕まえて、光子が最近いつ入浴したのかを尋ねた。
「先月の……」
職員が手元の表を見て言ったのは、光子が一葉の家に昼間だけ来ていた日である。
……母さんがシャワーさせてた日じゃないの。
「ってことは、その日から半月入ってないってことですか」
一葉の言葉に、職員は申し訳なさそうに言った。
「済みません。こちらとしても、南雲さんにはお風呂に入って頂けるよう働きかけてはいるのですが……」
最早、散歩に行くと見せかけて浴室に連れて行くのも駄目らしい。
「いえ、いいんです。あの伯母を相手に色々苦労していらっしゃるのは分かりますから」
面倒を見てくれる職員の機嫌を損ねて、伯母が此処を追い出されるようなことがあってはならない。
一葉の家で見きれなくなったから入所したのだし。
光子は普段は穏やかだが、怒ると感情の箍が外れて大声を出す為、他の入所者が怯えることもあるらしい。
光子自身も、怒りで血圧が上がれば脳梗塞が再発しかねない。
光子を怒らせないようにするとなると、結局本人の意思に逆らう訳にはいかず、入浴が出来ないという悪循環が続いているのだろう。
……しかも。
職員の入れ替えが激しいってことは、光子の心の中に突っ込んで行ける人がいないということなのだ。
光子が「この人が言うのだから仕方ない」と諦められるような人が。
職員はひたすら日課に追われて、入所者とコミュニケーションがとれる頃、異動か或いは辞めて行く。
すると。
入浴を数ヶ月も拒否するような事態を招く失敗を挽回出来なくなる訳で。
でも。
……そもそも、嘘をついてまで此処でお風呂に入るのを嫌がる理由って何だろう。
分からない。
一葉は首をかしげながら施設を後にした。



数日後。
一葉の母親は入浴させる為に、姉を車に乗せて帰って来た。
今日も入浴のみの帰宅である。
母親の介助で伯母は風呂を使い、さっぱりした顔で施設に戻って行った。
「湯船、浸かってたよね」
帰宅した母親に一葉が言うと、彼女は頷いた。
「入ったわよ、普通に」
「ってことは、湯船の中で滑って転んで怖い思いをしたってことじゃないよね」
「湯船は関係なさそうねえ」
何故、施設職員でもないのに此処までして伯母の入浴拒否の理由を探ろうとしているのかは、最早、母親にも一葉にも分からない。
「きっと、きっかけは職員さんにとっては小さな事件だったんだよね。オオゴトになってない訳だし、言葉を濁すくらいで何とかなってる訳だから」
「姉さんにとってはそれが大きなきっかけでもね」
2人はお茶を飲みながら考え込む。
「入浴に介助が必要な人だから、職員さんが目を離すことはないだろうし……」
「万が一、職員さんが目を離した隙に起こりそうなのは、姉さんが身体を動かそうとして転ぶとかだけど……違う気がするのよね」
これはあくまで母親のカンではあるのだが、何となく信じていいような気がした。
一葉は伯母の部屋を思い浮かべた。
白い壁。
白い天井。
チェストの上には大きなカレンダー。
ベッドの隣には車椅子と簡易トイレ。
壁にかかったシャンプーハット。
――シャンプーハット?
あまり使った形跡がなかった。
「母さん、みっちゃんの部屋のシャンプーハット、いつ買ったの?」
「ああ、あれは春くらいかなあ。前のが古くなったから新しいのを買ったのよ」
「みっちゃん、家では耳栓しか使わないじゃん」
「耳栓、職員さんがなくすといけないと思って、一応シャンプーハットを置いたのよ」
母親は言葉を続けた。
「ほら、春にベテランの職員さんが異動になったから、耳栓よりもシャンプーハットの方が如何にもって感じがするでしょ」
光子は髪を洗う時、脳梗塞になる以前から耳栓を欠かしたことがなかった。
昔、耳に水が入って中耳炎になったことから怖くて耳栓をする習慣がついていたらしい。
耳に水が入らなければいいので、耳栓の代わりにシャンプーハットでも安心する。
「ねえ、まさかと思うけど、みっちゃんの介助に慣れてない人が耳栓もシャンプーハットも使わないで髪の毛洗っちゃったんじゃないの?」
「……まさか」
2人は顔を見合わせた。
「だって耳栓もシャンプーハットもなかったら、さすがに姉さんも言うでしょ」
「使って、って言ったのを聞き流されたって可能性は?」
「……まさか」
母親はそう呟いたが、直後、はっとしたような顔をした。
心当たりがあるらしい。
「……だとしたら、みっちゃん、施設でお風呂入るの怖いんじゃないかなあ」
「それは怖いわ、きっと」
不快な、或いは嫌な記憶はいつまでも残っているものだ。
母親は意を決したように、立ち上がった。



珍しく母親が職員に詰め寄ったところ。
普段伯母の入浴介助をしない人間が、うっかり耳栓やシャンプーハットを忘れ、伯母の要求を聞き流して洗髪を強行したのが原因と判明した。
「言ってくれればいいのにねえ」
自分が職員に詰め寄ったことも忘れて、母親は呑気に煎餅をかじりながら言ったものだ。
……でも。
大島紬の紅い裾まわしが翻るのを気にしながら、一葉は施設の玄関をくぐった。
光子は未だに施設では入浴が出来ていない。
相変わらず、入浴の為に母親が日帰りで連れて来る。
受付を通り、光子が暮らすエリアに行き、職員に挨拶をする。
「今日もお風呂は……」
「声をかけたんですけど……」
……また駄目か。
お腹の中でそう呟いて、職員に連れられて部屋に入る。
「みっちゃん、元気?」
「ああ、一葉」
本人は今日もベッドで横になっていた。
「お風呂、断っちゃったんだって?」
一葉が尋ねると、光子はばつが悪そうな顔をした。
「……ねえ、入って来れば」
「嫌だよ、一葉来てるのに」
「私、待ってるからさ。何なら入るの見てようか?」
「きものが濡れちゃうじゃないの」
「大島だから濡れても少しは大丈夫だよ」
光子はあからさまに嫌な顔をした。
「じゃあ、みっちゃん。私、お風呂場の所で待ってるから」
一葉はさっさと部屋を出て、廊下の先の浴室の前の壁に寄りかかった。
……まあ、駄目なら帰るだけだし。
白い壁。
白い天井。
でも、何処となく暖かな白に見える。
祖母のお古の大島紬。
泥大島で、裾まわしは何故か赤。
若い頃に着ていたのかも知れなかった。
記憶にある、祖母のきものの裾まわしはもっと地味な色ばかりだったから。
そんなことをつらつらと考えていると、何かの気配を感じた。
一葉は視線を足元から戻す。
廊下の奥。
部屋のドアが開き、職員が押す車椅子が1台、静かにこちらに向かってやって来た。




(終わり)








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