さくら園


『次は、さくら園前、さくら園前でございます』

バスの一番後ろの席で居眠りをしていた一葉(かずは)は、はっとして降車ボタンを押した。
山の上の、特別養護老人ホームさくら園。
一葉は月に一度、此処で暮らす伯母を見舞う。
とっておきの大島紬に塩瀬の染めの帯を合わせて、珍しく白足袋に草履なんぞ履いている。
これも、きもの好きな伯母への心遣いだ。
バスを降りると、一葉は目の前の施設に足を踏み入れた。


十年前。
身体が弱く、子供の頃から対人関係に問題があった故に、ずっと独身で兄夫婦が継いだ実家の片隅でひっそりと暮らしていた伯母が脳梗塞で倒れて入院した。
手術、リハビリを経た伯母の身体は半身が麻痺でほとんど動かなくなっていた。
伯母の兄、つまり伯父は妹を引き取るつもりでいたが、妻と娘夫婦はこう言った。
「私達、忙しくて見られないよ」
何十年も同じ屋根の下にいたにも関わらず、兄嫁と馴染めなかった伯母が、その次の世代とも馴染めなかったのは当然のことだった。
其処で白羽の矢が立ったのが、伯母の妹、つまり一葉の母だった。
嫁には行ったものの、実家の近所で暮らしていた妹とは小さい頃から仲が良く、従って一葉が赤子の頃から伯母は時折面倒を見ていた。
妹の一家となら少々介護が必要なこの患者も心おきなく暮らせるだろう。
伯母を取り巻く医療職や福祉職の人間達はそう思い、一葉の母も同じように思った。
そして、伯母は五年間、一葉の家で暮らした。
主たる介護者の一葉の母が音を上げるまで。
伯母は、認知症の症状はあまりなかったし何より入所するには少々若かったが、独身だったので、施設には優先的に入所出来たのだ。
本人は施設に入るのを半狂乱になる程拒否したが、入所施設に入れる機会は、中の入所者が黄泉の国に旅立つか、或いは新しく施設が出来た時しかない。
これを逃せば終の住処は得られないかも知れない。
そんな訳で、伯母は不本意ながら《さくら園》で暮らすことになった。


施設の職員は、一葉に言った。
「一葉さんがいらっしゃる時、光子さんが一番いい顔をなさるんですよ」
何故なら。
伯母にとっては一葉は何の利害にも関わることのない、可愛い姪のままだから。
だから、一葉は伯母に会いに行く時は、伯母の好きなきものを着て行くのだ。
今日のきものは亡くなった祖母のお古。
伯母にとっては実の母親の着ていたきもの。
……気がつくかな。
一葉は、少し笑った。


受付で名前を書いて、家族宛の手紙や書類の入ったポストを開け、中身がないのをチェックしてから伯母のいるフロアに上がった。
伯母は食堂にいた。
目敏く一葉を見つけて、
「ああ一葉、来てくれたの」
と言う。
「お茶の時間だったのね」
一葉は伯母と同じテーブルでお茶を飲んでいる他の入所者達に会釈をして、隣で身を屈めた。
途端に、施設の職員が椅子を持ってすっとんで来た。
すみません、と声をかけて、椅子に腰かける。
「……羊羹だったの? 今日は」
「そうよ」
伯母とは誰もが話が続かない。


伯母は子供の頃から他人と会話をしたり、遊んだりすることが苦手だったらしい。
従って、学生時代も短い会社勤めの時代も友達は皆無。
他人と接することの楽しさを知らず、ただ壁際にぽつんと独りで立っていた。
話し相手は家族だけ。
他人から好かれる体験がなかった伯母は、成長するにつれ、性格的に鬱屈し、身体が弱く外に働きにもあまり行けずに実家にいたことも重なり、コンプレックスの塊から卑屈になっていった。
祖父が死に、兄夫婦が家の中心になると、自然と祖母と2人、家の隅にひっそりと生活するようになり。
祖母も死に、兄夫婦の娘の家族が同居するようになると、同じ屋根の下にいるにも関わらず、食事も別の、独り暮らしと大して変わらない状態になった。
――いや、独り暮らしよりも過酷だっただろう。
自分だけが蚊帳の外、という状態は。
自らその原因をつくったとはいえ。
家の北側の、日の当たらぬ部屋で、近所に暮らす妹の訪問はあったものの、伯母は独りで数年暮らした。
兄夫婦やその娘の家族達への恨み辛みを低い声でぶつぶつと呟いて。
だから。
同じ屋根の下にいる人間達は伯母の身体の異変に気づかなかった。
――脳梗塞。
日に一度部屋に顔を出す兄が来た時、既に意識はなかった。


「髪の毛、職員さんが結わいてくれてるの?」
「そうよ」
白髪混じりの髪は綺麗に三つ編みにされていて、先は可愛い飾りのついたゴムで結んである。
一葉が来る度、ゴムが違うのは、髪をいじるのが好きな職員が100円ショップ等で買って来るからだ。
倒れるまでは自分で結っていた髪も、一葉の家にいた時は一葉の母が毎朝整えていた。
施設に入所した日は三つ編みだった。
だから、職員はそれにならって、毎朝三つ編みを編んでくれている。
「お昼御飯、何だったの?」
「……忘れちゃった」
「お肉? お魚?」
「お肉」
「美味しかった?」
「美味しかったよ」
「いいなあ。私、今日はカップラーメン1つしか食べてないのに。昨日なんかおかずは何もなかったんだよ」
一葉がふくれると、伯母は喉の奥で笑った。
他の入所者達は皆、無言でお茶を飲んでいる。
飲食に介護が必要な人には職員がついているのだが、喋っているのはそういった職員と一葉達だけだ。
一葉の伯母以外の入所者は全て伯母よりも年上で、重度の認知症の症状がある。
お喋りというのも、なかなか難しいのかも知れない。
伯母にとって救いなのは、彼らが伯母を妹のような目で見てくれていることだろう。
此処では伯母は疎外感を感じずにいられる。
部屋はそれぞれ違うけれど、食事やお茶は食堂に集まるし、いつも人の気配を感じていられる。
それは伯母にとっては心地よいのかも知れない。
家にいることの、次に。


「また、来るね」
一葉はそっと立ち上がった。
「有難う」
伯母が言う。
「着替え、箪笥に入れておくから」
「有難う」
一葉は食堂から伯母の部屋に向かう。
持って来たのは母親に頼まれた新しい下着。
正確には、施設職員に母親が頼まれたものを代わりに一葉が持って来たのだが。
ベッドとチェストと簡易トイレが置いてあるだけの簡素な部屋。
ベッドの脇には髪を結う為の飾りのついたゴムとブラシ。
一葉はチェストの引き出しを開けて、持って来た下着をしまった。
そしてまた食堂に戻る。
「じゃあ、またね」
「有難う」
帰ろうとして、一葉は伯母の方を振り返る。
「これ、誰のきものか分かる?」
着ているきものを指差して、尋ねてみると。
「……お祖母さんの」
そう言って伯母はにこっと笑った。
それを見て、一葉も笑った。
そして。
目が合った施設職員に頭を下げ、一葉は施設をあとにした。


滞在時間は僅か15分程。
本当は、1時間くらいいた方がいいのは分かっている。
しかし。
話が続かないし、また伯母がすぐに帰らせようとする。
会話がうまくいかないのを気にして。
ボロを出したくなくて。
一葉の前ではいい伯母でいたくて。
だから、今日もまた短時間の滞在になってしまった。
それでも、数日後に来る筈の一葉の母親に対して、伯母は言うだろう。
「一葉がお祖母さんのきものを着て来た」
そう言って嬉しそうに笑うだろう。
自分の母親が生前着ていたきもの。
昔のその光景を思い出して。
風が吹いて、街路樹を揺らした。
一葉は振り返って建物を見上げた。
また、来るから。
心の中で思いつつ。
そして、再び前を向いて歩き出した。
きものの裾を押さえながら。
向かい風に逆らって。
負けるものか、と呟いた。




(終わり)







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