益代さんの親指


透子は風邪をひいた。
天地異変の前触れか、等と同僚達に恐れられたのだが、鬼の撹乱――いやいや、仕事人間だってたまには身体にガタが生じる。
結果、昼で早退。
ふらふらの身体に鞭打って、途中で2リットル入りのスポーツ飲料を買い込み、病院で薬を貰って帰宅すれば。
――益代さんがいない。
何処かに出かけたのだろうと思いながら薬をスポーツ飲料で飲もうと、台所にコップを探しに行ったのだが。
まな板やらボールやら色々と出しっ放し。
まるで何かをやっている最中のような。
……おかしい。
益代さんは基本的には働き者である。
片付け方はお世辞にも綺麗とは言えないが、台所仕事を放り出して出かけるようなタイプではない。
その、何かをやりかけたような跡を探偵よろしく眺めていると。
「ただいま〜」
益代さん帰宅。
「透子〜、あのね〜、おかーさん野菜すり下ろしてたら指まですり下ろしちゃって〜」
「ふうん……は?!」
お気楽調子で言うから、うっかり流してしまいそうになる。
「それってもしかしてオオゴトじゃないの?」
「絆創膏貼ったんだけど血がとまらなくって〜、まずいかな〜と思って病院行ったのよ〜」
この能天気な態度は何だ。
「だからさ〜、ちょっとこのゴムこの指にはめてくれる?」
益代さんは病院から貰って来たゴムのキャップをバッグから出して言った。
透子としてもこれは自分がやらねばならないだろうと思った。
益代さんの怪我は利き手の親指、ゴムのキャップは他人にはめて貰わないと無理なのは見るまでもない。
「いたたたたっ……!」
透子がその親指にゴムのキャップをはめようとして、指に接触するたびに、益代さんは本当に痛がった。
怪我した指には包帯が巻かれているので必要以上に太くて、キャップを被せ辛い。
それでも何とか指にはめて。
一仕事終えた透子は、すぐにスポーツ飲料で薬を飲んで、自室で寝てしまった。



夕方。
目が覚めると、薬が効いたのか少し良くなっているような気がした。
水分補給の為に茶の間に行くと。
またしても益代さんはいない。
変だなと思いつつ、透子は冷蔵庫を開けてスポーツ飲料を取り出し、コップに注いだ。
庭の方で物音がする。
首をかしげながら縁側に出てみれば。
「透子〜。何か出血してるんだけど……」
日除けの帽子に泥だらけの割烹着とゴム手袋。足元は長靴。
益代さんの庭仕事ルックだ。
透子はズキズキと痛み始めたこめかみを押さえながら言った。
「まさかとは思うけど、草むしりしてた訳?」
「うん。でも何か出血しちゃって〜」
益代さんはゴムのキャップをはめたままの親指を娘に見せながら言った。
ゴムのキャップの中の白い包帯は血で滲んでいる。
透子の常識からいって、病院に行かねば血が止まらない程の怪我をした人間が、病院で処置して貰った直後、怪我をした箇所を使うようなことをするというのはあり得ない。
しかし、益代さんは言った。
「一応、ゴム手袋してたんだけど、ゴム手袋も中が真っ赤になっちゃって〜」
軍手の代わりにゴム手袋をしても、何の解決にもならない。
「やめなさいっ!! すぐに!!」
透子は自分の熱のことを忘れて怒鳴った。



透子はスポーツ飲料を飲み、また自室に引っ込もうとしたのだが。
「さて、今日の御飯は……」
炬燵で休んでいた益代さんが立ち上がった。
「まさかとは思うけど、その手で夕飯作る気じゃないわよね?」
「ゴム手袋すれば大丈夫でしょ?」
「――何処が?」
全く懲りない益代さん。
「とりあえず、鯵でも焼いて……」
「いいっ、私やるから、今日は!」
言うが早いか透子は方向転換。
炊飯器で御飯を炊き、野菜たっぷりの味噌汁を作り始める。
どうせ自分は具合が悪いし、益代さんはコレステロールが高い。
父親も体型を気にしてダイエット中だし、御飯と味噌汁とじゃこがあれば大丈夫だろう。
透子はそう思ったのだが。
益代さんは違った。
「じゃあ、おかーさんはお肉でも焼いて……」
「いいからっ!」
透子は益代さんが冷蔵庫から取り出した豚モモスライスを強奪。
……肉、食べたくないなあ。
そう思ったが、仕方ない。
肉が少しだけで済むよう、野菜炒めにすることにした。
透子が野菜の下ごしらえをしていると、益代さんはまた冷蔵庫を覗いた。
「じゃあ、おかーさんは鰻でも焼いて……」
「いいから座ってて!!」
台所でウロウロしている益代さんを追いやって、透子は溜息をついた。
風邪が悪化したような気がした。



「ま〜、透子もやれば出来るじゃないの〜」
益代さんは、帰りが遅い父親を待たずに、御機嫌で夕食を終え。
透子は疲れ果てていた。
「さて、お風呂……」
益代さんが立ち上がったので、透子は呼び止めた。
「まさかとは思うけど、その指でお風呂入るんじゃないわよね?」
透子の常識からいって、医者が処置した指からまた血を滲ませた人間が、血行の良くなる行為をするというのはあり得ない。
「いけない?」
益代さん、不思議そうな顔をしている。
「1日くらい、お風呂入るの我慢しなさいよ」
透子の言葉に、益代さんは言った。
「だって明日出かけるんだもん」
「は?!」
「明日、友達と港の朝市に行くのよ〜。魚が美味しいんだって」
益代さんは自分の欲求には忠実な人間である。
「それに、久川先生、お風呂入るなとはいわなかったもん」
医者だって、自分が処置した指をその日のうちにまた出血させるような患者は、想定外だろう。
「……頼むから、シャワーだけにして。湯船には絶対つからないで」
透子の頭痛は酷くなった。
「あ、そうそう、透子」
「何?」


「何で今日帰りが早かったの?」


益代さんは基本的に自分のことしか見ていない人間である。



翌日。
益代さんは夜も明けぬうちから、ルンルン気分で朝市に出かけて行き。
父親は透子を気遣いながらも会社に行き。
透子は薬効虚しく症状が悪化して、1日中部屋でうんうん唸りながら寝て過ごしたのだった。




(終わり)







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