薄物の季節に入る頃から、しとしとと雨が降り続くようになった。
庭仕事は自然と休みになり、庭を眺めるのも縁側から硝子越しに、ということが増えた。
庭の隅でひっそりと咲く紫陽花は水色で、其処だけが何だか鮮やかに見える。
……咲き始めた時は白っぽかったのに。
少しずつ色づいて、今はすっかり水色だ。
縁側に面する部屋の襖を開けて柱に寄りかかり、片足だけ縁側に投げ出してぼんやりしていると彼がやって来て、お茶にしようと言う。
私は頷いて立ち上がった。



台所で彼と一緒にお茶の支度をする。
お茶請けはなく、飲み物だけだ。
彼は珈琲。
この前私の実家が送って来た珈琲をペーパードリップで。
砂糖もミルクも入れない。
私は純ココアに砂糖とミルクを入れてお湯を注いだ。
用意した自分のお茶は何となく縁側に持って行った。
腰を下ろし、カップを脇に置いて膝を抱える。
猫舌だからすぐには飲めない。
降り続く雨。
雨を柔らかな針と例えたのは誰だったか。
針と言うには太いけれど。
白い空から水が落ちて来る日は、何故気分が沈むのだろう。
「……降りますね」
私の隣にやって来た彼は、立ったまま珈琲を飲んでいる。
「憂鬱ですが、この時季に雨が降らないと後で困りますからね」
私はコクリと頷いた。
こんな時。
言葉がなかなか出て来ない。
聞かれて答えることは出来ても、相槌が打てない。
そう思うと悔しくて、思わず唇を噛み締める。
噛む力が強ければ皮は破れ、血の味が口の中に広がる。
後で叱られることが分かっているのに。
自分の身体を傷つけてはならない、と。
悲しい顔をされることが分かっているのに、自分自身を止められない。
「ココア、もう冷めてますよ」
一向にココアに口をつけない私を不審に思ったのか、彼は脇に置いたカップを私に渡そうと前に回って来た。
思わず私は顔を伏せたが、彼はそれよりも早く唇の傷に気づいてしまった。
「望さん!」
彼はカップ2つを素早く床に置き、両手で私の顔をすっぽり包んで持ち上げた。
「……血が出てます」
彼の言葉に泣きそうになった。
視線が痛い。
また怒られる。
「唇はむやみに噛んだら駄目です」
「ご……」
ごめんなさい。
そう言おうとした。
すると、音もなく彼の顔が近づいて来た。
顔が迫って来るにつれ、1つずつ感覚が遮断されてゆく。
血の味が失せ。
雨の音が失せ。
彼の顔には紗がかかり。
ついに顔にかかる掌の感覚だけが残った時。
濡れた温かいものが、私の下唇をそっとなぞって行った。
顔がゆっくりと遠ざかり、彼はまた口を開いた。
「唇は、むやみに噛んだら駄目なんです」
分かりましたか、という言葉に、私は恐々首を振ることしか出来なかった。
彼の手が離れ、その場から立ち去っても、遮断された感覚はなかなか戻って来なかった。
雨の音を知覚出来た頃には、マグカップはすっかり冷えきっていた。
舐められた唇の感覚は消えずに残り、私は暗くなるまでその場に座り込んだままで。
冷えきったココアは口をつけることなく、彼の手で流しに捨てられた。


雨は翌日の朝まで降り続き、雫が光る紫陽花はその色を水色から紫に変化させていた。



梅雨も休憩が必要と見えて、今度は晴れの日が続く。
彼はいつものように家事をてきぱきとこなした後、庭の草取りに励んでいた。
私はそれをぼんやり縁側から眺める。
脇には彼が用意した急須と湯飲みとポット。
体調不良気味になった私はあまり家事を手伝わなくなった。
常にぼんやりしていて、あんまり動けないし頭も働かない。
……太陽が眩しい。
人形は人間になれず、やはり人形のままだった。
彼にとっては、人形の方が都合がいいのだろう。
相変わらず私は口下手だったし、最早反抗する手立ても気力も体力もない。
……もう、いい。
自分で管理していた頓服の薬まで取り上げられて、「私の」ものは何一つない。
「私」が此処にいることがおかしいくらいだ。
何故。
何故、「私」が此処にいる――?
「望さん」
目を上げると、いつの間にか目の前に彼が立っていた。
「お茶にしましょう」
私は頷いた。
お茶が飲みたいというよりも、それは最早条件反射だった。



夕食の支度の時も、私は台所の椅子にずっと腰かけて過ごし、配膳が終わると茶の間に誘導されて、いつもの座布団の上に座った。
食後、後片付けが終わって一息ついた頃、彼が切り出した。
「お話があります」
ゆらりと目を上げると、彼は私の目を見てこう言った。
「お暇を頂きたいのです」
……暇?
言っていることが分からずにキョトンとしていると、彼は言葉を続けた。
「御実家には明日にでも伝えて、新しい方に望さんのお世話をお願いしようと思います」
いつもと同じ、穏やかな声。
けれど、言っていることが、まるで予想外なのだ。
……彼が、いなくなる?
「私が此処にいては、貴方を」
淡々と、彼は言う。
「……貴方を殺してしまうかも知れない」
彼はそっと立ち上がり、私の側に座った。
両の腕が私の身体にまわる。
「生きていて欲しいのです。貴方には」
髪を撫でる、大きな手。
私は、何処か遠くでそれを感じていた。
「氷は、いつかは溶けるんです。冬の後には春が来る」
私のいる場所は極地なのに。
「どんなに辛くても、何処かに望みはあるんです」
……そんな訳、ない。
「貴方は御家族の方にとっても、私にとっても、大事で、必要な存在なんです」
……金目当てのくせに。
「仕事だからじゃありません。側で笑ってくれたらそれで良かったんです」
……嘘。
「望み――それは貴方そのものなのですから」
だから、と彼は言った。
「御身を大切にして下さい。無理して俺なんかに従わなくてもいい、憎んでくれてもいい」
彼の声が震えている。

「俺はただ、貴方に幸せに生きていて欲しいんです」

その言葉に。
涙の筋が、頬ををつたって流れて行くのを感じた。
彼の言うことが偽りだとは思えなかった。
彼が私にぶつけた熱に嘘偽りがないのなら。
だとしたら。
だとしたら、私は。



「此処に、いて」
私は涙をぬぐい、顔を上げた。
身体を離すと、彼の腕が少し緩んだ。
「此処に、いて」
彼の驚く顔をしっかりと見つめて、精一杯言った。
「――あと」
耳まで真っ赤に染めて、うつ向く。
「夜は、独りで寝る」
「嫌です」
彼の言葉にぎょっとして、私は身体を強ばらせた。
……でも。
言わなければ。
言葉にしなければ、伝わらない。
「このままは、嫌だ」
下を向いたまま、震える声で続ける。
「ああいうのは、嫌だ」
そう言うと、彼が息をつめたのが分かった。
私は彼の腕から逃れ、身体を離した。
声だけではなく身体まで震え始める。
それでも。
私は変わらなければならない。
恐怖と戦いながら、顔をそろそろと上げ、涙を堪えて口を開く。
「私はこの家の、主だから」
彼は目を見開いて私を見つめた。
身体の震えは止まらない。
目をそらしたい気持ちを無理矢理ねじ伏せて、私は彼の言葉を待った。
沈黙が長引くにつれ、恐怖は増し、また涙が溢れそうになる。
「……分かりました」
暫くして、彼の口から発せられた言葉に気が緩んだのか、涙腺まで緩みそうになり慌てて目を擦った。
ありがとう、と下を向いて消え入りそうな声で言うと、目の前の彼が微笑んでくれた気がした。








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