不安


いつか、私も捨てられる。
飽きたら丸めてゴミ箱に投げ入れて。
袋に詰めてゴミ捨て場行き。
そうしてみんな、見えない場所で焼却処分。
記憶は薄れ、全てが消えて、なかったことにされる。
いつかはきっと捨てられる。
捨てられるのは、嫌だ。
だから。
私が、彼から離れればいい。
私の方から離れればいい。



彼が休みの日。
私はこっそり実家に行った。
近々、下男に暇を出して、本当の独り暮らしをしたい。
そんなようなことを口にした。
家事を教えて貰っているから、きっと大丈夫だと。
以前から彼は実家の家族には評判が良く、もし私と反りが合わないようなら此方で引き取る、と言われていたので問題はないように思えたのだが。
家族には猛反対された挙句、そんなことを言うようなら実家に戻れとまで言われてしまった。
がっかりして家に戻り、その夜。
茶の間で独りお茶を飲み、日付が変わる頃。
そろそろ自室に戻ろうと腰を上げたところで、玄関での物音が聞こえた。
彼が帰宅したらしい。
「只今戻りました」
台所からの風が運んで来たのは、茶の間の入口に立つ彼の匂い。
久し振りに見る洋服姿。
普段、この家では彼もきもので過ごしているので、厚手のシャツにジーンズといういでたちはなかなか見られないし、若く見える。
――かなり呑んでるな、これは。
思わず顔をしかめてしまった。
彼は私の前では酒を呑まないし、酔っている姿を見せたりもしない。
それが、明らかに酒の匂いを纏わせ、身体を支える為か鴨居と柱に手をかけている。
顔の色や口調はそれほど変わらないけれど。
何よりも、目が怖い。
眼鏡の奥の目が据わっている。
「……」
お帰り、と言おうとして口を開きかけ、恐怖で言葉が喉の奥で止まる。
口も固まり、うまく喋れそうにない。
それなのに。
私が何か言わないといけないような空気が此処にはあった。
言わなければ。
言わなければ、きっとこの空気は変わらない。
彼は口元だけ笑みを浮かべているが、目は全く笑っていない。
そして、何も言わずに其処に立っている。
「……お」
口から押し出した言葉の最初の文字。
「お……おあ……」
――変だ。
か、が発音出来ない。
私は焦って繰り返す。
「おあ……おあ……」
何故言えないのか分からない。
「おあ……おあ……」
涙まで出て来た。
最初の2文字を必死に繰り返す私を見て何を思ったのか、彼がゆらりと茶の間に入って来る。
「おあ……おあ……」
私は恐怖に固まりそうになりながら、震えながら言葉を紡ごうとした。
すると。
彼は私と視線を合わせるように正面に座り、私の頬に手を伸ばした。
驚いて硬直した私と同じ形の口を作る。
そして。
呼吸を合わせ、一緒に発音したのだ。
ゆっくりと。
「お、か、え、り、な、さ、い」
私の方は些か母音以外の発音が怪しく、きっとどう聞いても「おあえいああい」に限りなく近かったと思うのだが。
何とか言い終えた私を抱き締めて、彼は言った。
「怖かったんですよね、すみません」
普段と変わらぬ柔らかい声。
しがみついて泣いている私に、彼はいつまでも付き合ってくれた。
不思議と、酒の匂いはいつの間にか気にならなくなっていた。



また、彼について家事を習う日々に戻る。
炊事、掃除、洗濯、針仕事、庭の手入れ。
合間にお茶を飲み、買い物に行く。
懸念された私の吃りはまもなく消えて、最低限の言葉のやりとりが彼となされるようになった。
朝の「おはようございます」から始まって、夜の「おやすみなさい」まで。
最近口を動かさなくなっていたので、まるでリハビリのようだった。
返事が必要な場合には殊更にゆっくり話しかけて来るし、私が返事をするまでその場を動かずに待っていてくれる。
時々、甘やかされているような感覚もあったが、それが嬉しいのも確かだった。
あの日の威圧感はすっかり消え失せ、穏やかで優しい彼が戻って来た。
そう思った。



――或る日。
私が庭仕事に精を出している間に、彼が買い物に出かけた日があった。
「どうして!」
塀の向こうから若い女性の声が聞こえて来た。
「納得出来ないっ! お金に目が眩んだの!?」
……痴話喧嘩か別れ話の拗れか。
あんまり住宅地の真ん中で聞くことはない会話である。
男の方の声は聞こえないけれど。
ちょっと静かにして欲しい。
それでも草を黙々と抜いていた私の耳に入って来たのは。
「あんな男か女か分からないような奴!」
私は思わず顔を上げた。
それは他人からよく言われる言葉だったから。
心臓に悪い。
深呼吸をして、また地面に目を落とす。
「ねえ、やり直して。私、けい君がいないと駄目なの。離れてそれがよく分かったの」
草を抜く手は疎かになり、塀の外の声に神経が行ってしまう。
「あんな所辞めて、やり直して。住み込みでプライベートな時間なんか殆どないんでしょ。けい君が仕事を辞めても私の収入で暫くは生活も何とかなるし」
板塀の下から見える白い足。
生憎、彼氏の方は植木が邪魔をしてよく見えない。
「ねえ……けい君」
すると。
彼氏が何か言ったのか彼女は帰ることになったようで、くるりと向きを変えて歩き出した。
彼女に続いて彼氏の足が見えた。
……きもの。
藍の縞、木綿の単衣。
それは。
今朝から目にしていたきものだった。
――彼、だ。
私は凍りついたようにその場から暫く動けなかった。



庭仕事を切り上げて、私は自室に戻った。
何もやる気が起きず、部屋の隅で膝を抱えて座り込む。
彼女の言葉が頭の中でぐるぐる回る。
回る毎にどうしようもない程の感情が渦を巻いて、涙が頬をつたう。
目元を膝に押しつければ、きものに染みが広がる。
――玄関で音がした。
彼がひたひたと廊下を渡り、こちらに来るのが分かる。
失礼します、という声の後、静かに襖が開いた。
「只今戻りました」
「……おかえり」
私が顔を膝に押しつけたまま言うと、彼が部屋に入って来て、私の前に座った。
「……聞いていたのですか」
何を、とは言わない。
彼は私があの時間塀の向こうで庭仕事をしていたのを知っているから。
問いかけには頷きもしなかった私だが、こうして部屋に引き込もっていること自体肯定しているのと同じだろう。
彼は固まったままの私に手を伸ばして引き寄せる。
「あんな言葉は気にしなくていいんです」
……あんな言葉。
「貴方は貴方であればいいんです」
……これは仕事。
私は心の中で呟く。
彼にとって、私のお守りをすることは仕事なのだ。
こうして慰めているのもお金の為。
「もう彼女は此処には来ません」
だから心配いりません、と言葉を続ける。
――来ない。
彼が来ないと言うなら来ないのだろう。
それは本当だと思う。
けれど。
彼はこの家と私の世話を任された下男。
此処で行われる全ては彼の業務であり、それ以上でも以下でもない。
けれど、もしかしたら。
彼も陰では私のことを笑い、蔑んでいるのかも知れない。

――あんな、男か女か分からない奴、と。

でも。
それは仕方のないことだ。
こんな姿の私が悪いのだから。








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