ひと


手を引かれて歩く。
こんなことは此処に来てから初めてだ。
……子供じゃあるまいし。
朝から主人は忙しい。
私を寝間着からきものに着替えさせると、手を引いて自分の部屋に向かう。
人形は部屋の隅に座らせてから自分も着替え、また手を引いて洗面所へ。
代わる代わる顔を洗い、今度は人形を連れて家中の戸を開ける。
それから台所へ。
台所の背もたれのない椅子を壁際に置いて人形を腰かけさせ、自分は朝食の準備に入る。
包丁や鍋の賑やかな音。
立ち込める美味しそうな匂い。
台所の中を動き回る主人。
じっと見ているうちに少し眠くなり、うとうとしているといつの間にか料理が出来上がり、器に盛りつけられて行く。
気がつくと隣の茶の間には卓袱台と座布団がセットされていて、彼は人形を座布団の上に連れて行き、座らせてから自分は器の並ぶお盆を持って戻って来た。
――2人分。
彼と食事を一緒にしたことはない。
「頂きます」
彼につられて手を合わせ、味噌汁に手を伸ばす。
――豆腐とわかめ。
「美味しいですか」
そう問われて私はコクリと頷く。
下を向いたまま、顔は上げられなかったけれど、彼が微笑んだような気がした。
私が別の料理に口をつける度に彼はその問いを繰り返し、私は頷き続けた。
食後のお茶が済むと後片付け。
人形が台所の椅子に座っている間に彼は食器を洗い、卓袱台を拭き、すっかり片付けてしまう。
それから、洗面所で一緒に歯を磨き、人形の見ている前で洗濯機を回す。
洗濯の間、彼は人形を連れて部屋を掃除して回り、その後は縁側に人形を腰かけさせて洗濯物を庭の物干し棹に干す。
ぽかぽかと暖かな日差し。
私はそこでまた少し居眠りをしてしまう。
茶の間に戻って差し向かいでお茶を飲み、お茶の後は私を庭に連れ出し、庭の草むしり。
そして、台所に戻って昼食の支度をし、茶の間で食事。
午後は再び草むしり、お茶、それから買い物。
夕食、入浴、就寝。
――これが彼の生活の一連の流れ。
結構忙しいということに気がつく。
この日の夜も、彼は人形を抱えて眠り、私も流石に疲れ果てて薬も飲まずに寝てしまった。



そして、翌朝。
また同じように行動する。
……何故、連れ回すのだろう。
彼の後ろ姿を見て思った。
今日も草むしり。
彼が小さな鎌を持って雑草と格闘している間、私は庭の木を眺めたりしていたのだが。
ふと、足元に青々とした草が目に入った。
その場にしゃがみ込み、1つ引いてみる。
葉だけが千切れた。
また1つ引っ張ってみる。
葉だけがブチッと切れた。
何か、違う気がする。
「――根っこから抜かないと」
気がつくと彼がすぐ隣に来て、葉だけが千切れた草の根を引き抜いた。
真似をしてもう1つを抜こうとすると、彼は私の手を止めた。
「軍手を持って来ますから、ちょっと待っていて下さい」
彼は急いで母屋から新しい軍手を持って来てくれた。
「草で手を切るといけません」
そう言って差し出された軍手を私は同じようにはめて、残った根を引き抜いた。
「そんな感じで」
彼はそう言って微笑んだ。
1つしかない鎌で彼がしっかり根の張った草を抜き、私は手で抜き易い草を抜く。
お茶の時間になる頃には、軟弱な私の腰や膝はすっかり痛みを持つようになり、足も痺れていた。
軍手をはめていた手も土で真っ黒で、石鹸で洗っても爪の辺りはあまり落ちない。
「後でもう一度洗えば落ちますよ」
掌を見つめる私を見て、彼は言った。
「私も同じです」
彼の手も私と同じ――いや、私よりも土が残っていた。
見上げると、眼鏡の中の目が悪戯っぽく笑っている。
――つられて私も、笑った。


「ゆっくりでいいですよ」
彼の隣で野菜を切る。
側には彼の切ったお手本がある。
それを見ながら、同じ厚さに切る。
「……それ、ちょっと厚いです」
時折、修正が入る。
――或いは。
「じゃあこれは一緒にやりましょう」
彼が後ろに回って、私の手の上に手を置き、一緒に包丁を握る。
そして。
トントントントントントントントン……。
リズミカルに野菜を刻んで行く。
刻んでいるのは彼だけれど、自分で刻んでいるような感覚に陥る。
私は思わずクスクス笑った。
彼も背後で笑っている。
トントントントントントントントン……。
「ああ、切り過ぎてしまいました」
油断をしていると、沢山刻んでしまうらしい。
「仕方ありません。これはスープに入れましょう」
そんなことも楽しくて、私は笑った。
鍋をかき回し、ぐつぐつ煮えるのをじっと眺めたり。
味見をしたり。
皿に盛りつけたり。
料理は楽しい。
そして、自分で作ったものはどんなものでも美味しい。
……不思議だった。



一緒に家事をする。
これが当たり前になると、小さな仕事を任されるようになった。
ポストから新聞を取って来たり。
庭を掃いたり。
食器を洗ったり。
洗濯物を干したり。
乾いた洗濯物を畳んだり。
あくまでも彼の監督の下での仕事――と言うか手伝いではあったが、何だか嬉しかった。
もう手を引かれることはなかったが、手伝うのが楽しくて、朝から晩まで彼について歩いた。
――そんな、或る日。
朝から雨が降っていた。
当然、洗濯と庭仕事は中止である。
昼までそれぞれ自室に籠ることとなったのだが。
……久し振りだ。
本を開きながら私は思った。
同時に、物凄い違和感を覚える。
彼が、いない。
何となく、廊下と縁側の襖を少し開けてみた。
少しでも、彼の気配を感じたくて。
親の気配がないのに気づいて不安になる子供と同じだと思う。
しかし。
聞こえて来るのは雨の音ばかり。
本の中身は一向に頭には入らず、堪りかねて私は茶の間へ行った。
教えて貰ったように急須を使ってお茶を淹れ、2つの湯飲みに均等に注ぐ。
お茶の入った湯飲みをお盆に載せて彼の部屋の前まで来ると、彼が誰かと話している声が聞こえて来た。
思わず私はその場で聞き耳を立てる。
「……でも、もう戻れない」
聞いたことのない、冷たい声。
「やり直すなんて無理だから、俺は」
口調こそ砕けてはいるが、まるで取りつくしまもない。
私の知らない彼が其処にいた。
「……もう、切るから」
其処まで聞いて、私は静かに茶の間に戻った。
湯飲みを1つ持って、流しにそっと中身を捨てて音をなるべく立てないように静かに洗って布巾で拭いて元の場所に戻した。
……私もいつか、あんな風に言われるのだろうか。
離れなければならぬ日が来るのだろうか。
涙が頬を伝って下に落ちた。
声を出さず、私は暫く泣き続けた。







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