水が伝う日々


静かな住宅地の中に、その家はある。
時代に取り残されたかのような、木の塀で囲まれた、庭付き木造平屋建ての小さな家。
其処で、私は住み込みの下男として暮らしている。



この家の主と猫の世話をしながら――。





――眠れない。
そっと部屋を抜けて台所に向かう。
食器棚から長いコップを取り出し、製氷器の氷を手で掴んで入れる。
大半の氷はがらがらと音をたててコップの中に入ったが、少し掌からこぼれた為、鈍い音が混じる。
床に落ちた氷は放置して、冷蔵庫の中の烏龍茶を掴み、流しの横にコップと一緒に置いた。
多少乱暴だった為に音が大きくなったが構わない。
コップに烏龍茶を注ぎ、1杯目は一気に飲み干した。
2杯目を注いだところで、烏龍茶は冷蔵庫に戻す。
――らしくない。
私のこの状態を見たらあの人はそう言うだろう。
何も知らない振りをして。
何もない振りをして。
私に求められるのは、職務に忠実な下男の役割。
この家の家事一切を取り仕切り、この家の主の健康に留意し、話し相手になること。
話し相手は単なる話し相手であって、それ以上は取り合って貰えない。
抑えられた感情は夜独りになると、じわじわと壁を浸食し、外に出る。
自分自身の中と外とではあまりに温度差がある。
コップの表面の細かな水滴が、つーっと伝ってステンレスの上に落ちて行く。



するりと音もなく猫が台所に現れた。
何も言わず、足元にじゃれつく。
落ちた氷は溶けかかっていたが、身を屈め、そっと拾い上げて掌に載せて鼻先に持って行くと、ひと舐めして横を向いた。
何か食べていると勘違いしたのだろうか。
一緒に舐められた掌。氷を捨てるついでに水に流した。
……起きているのなら、見に来ればいいのに。
猫はいつもあの人と同じ部屋で眠る。
夜はいつも襖をぴたりと閉められるあの部屋。
猫が出て来るのはあの人が起きていることに他ならない。
けれど、あの人は知っている。
夜が深まれば、いつも穏やかな下男の本性が顔を出すことを。
自分自身の存在が引き金を引いてしまいかねないことを。
だから、あの人は出て来ない。
例え台所から大きな音が聞こえたとしても。
自分の部屋で、横になったまま耳を傍立てているだけだ。
――いや、猫を寄越しただけマシか。
開いているのに開けられぬ部屋。
私は口を歪めて笑った。
からん、とコップから音が聞こえる頃にはステンレスにはすっかり水溜まりが出来ていた。
いつか、氷は融けるだろうか。



私の傍で行儀よくしていた猫は、何故か部屋までついて来た。
どうするのか様子を伺っていると、自ら布団に潜り込んで行く。
今日はこちらで眠るらしい。
私も続いて布団に入る。
閉め切られた部屋にいるあの人の代わりに、私は猫と一緒に眠る。
目を閉じて、暫くすれば夜が明ける。
朝になれば、私はいつもの下男に戻る。
穏やかに微笑む、話し相手に戻る。
暗い瞳を隠し、想いを押し込めたまま。




(終わり)






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