(良い薫りだ…)

俺は、カップから立ち上るコーヒーの薫りにうっとりと目を閉じた。



ここは俺のお気に入りの喫茶店。
たまたま知人に連れられてこの町に立ち寄った時に偶然見つけた店だ。
取りたてて言うことのない小さくて古い店だが、その雰囲気がどこか懐かしく落ちついた気分にさせてくれる。
そして、なによりもこの店のコーヒーが美味い。
実を言うと、俺は特にコーヒー通というわけではないし詳しい訳ではないのだけれど、この芳醇な薫りは他のどの店にもひけを取らないと思っている。
いつ来てもさほど混んではいないこの店で、俺は決まって中二階の隅っこの窓際の席に座る。
その少し曇った小さな窓から、通りを歩く人々を何気なく見下ろしていると、時間の過ぎるのをつい忘れてしまう。



(そうか…今日はバレンタインデーだったな…)

少女が大事そうに手に下げた可愛らしい紙袋は、一目でそれとわかるものだった。
いつもよりおしゃれをして、勇気を振り絞り好きな少年にあのチョコを渡しに行く所なのだろう…
そんなことを想像すると、俺の口許には自然に笑みが浮かんでいた。


「剣さん、お久しぶりです。」



不意に名を呼ばれ、目を移すと、そこには眼鏡をかけた小太りの男が立っていた。
不潔な感じのするぼさぼさの髪に、なんともセンスのない服装…
俺は、それに対する不快感を隠すように、作り笑顔を浮かべた。



「あぁ…久しぶり。」

確か、この男とはこの店で何度か顔を合わせたことがある。
何だったか他愛もない話をして…そういえば、その時に名前も聞いたような気がするが、全く思い出せなかった。
ただ、この男が近くのネットカフェで働いているということだけは覚えていた。
それは、この男がいかにもネットカフェにいそうなタイプだったからだ。



「剣さん、これ、そこで女の子に剣さんに渡してくれって頼まれたんですけど…」

そう言いながら、男は可愛らしい包み紙に丁寧に包まれた小さな箱のようなものを俺の前に差し出した。



「剣さんは、やっぱりカッコイイからモテるんですね。
うらやましいな。」

その言葉から、この箱の中身がバレンタインデーの贈り物だということを俺は確信した。
箱の薄さや重さから、チョコレートではないかと思えたが…だとしたら、おかしい。
なぜなら、俺はチョコレートは食べないと公言しているのだから。


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