春宵





「……いい夜だ」


 浮かぶ月は曖昧に薄雲に覆われて見え隠れする。その動きを天色の瞳で追いながら、アスベルは頭の後ろで腕を組む。寒さも和らいだ季節になったか、微かにあたたかな風が赤茶色の髪を攫う。目的もなく、ただ散歩でもしようかと宿屋を後にしたアスベルは視界の先で、見覚えのある少女を見つけた。


「……プリムラ?」


 声をかけると少女はくるりと振り返り、ああアスベルだ、と微笑んだ。


「宿屋で休んでるのかと思ったよ」

「さっきまで宿屋にいたよ…でも窓から見えたから」

「なにが?」


 肝心なところが抜けてしまった理由にアスベルは首をひねるが、プリムラはにこりと笑って何でしょう、と茶化す。


「月か? きれいだよな、」

「……それもあるけど」


 漸く出てきたアスベルの答え。それに不満があるようで、少し拗ねたようにプリムラが呟く。


「……? 拗ねるなよ」

「拗ねてない」


 何か悪いことでも言ったのか、とアスベルは頭を掻く。拗ねてないとは主張しているが、なんとなく、否、確信をもって彼女は拗ねている、とアスベルは思った。


「寒くないか?」

「別に、」


 寒くない、と続けようとしてプリムラは言葉を失う。後ろから、確かなぬくもりを感じる。
 その正体は、紛れもなく今まで会話を交わしていた青年で。


(あつい……)


 プリムラは、このあつさが、春の夜風があたたかいのか、それとも他の何かのせいなのかは分からなかったが、頬があつくなるのだけは分かった。
 振り返るのも躊躇われたので、プリムラは鈍感のくせに、とだけ吐き捨てるように呟く。


「なんだって?」

「……なんでもありません」


 耳元で紡がれる言葉に、またプリムラは頬があつくなった気がしたが、知らないふりで顔を逸らす。


「俺が見えたから、だったりするのか?」


 この言葉もさして意味があってのことじゃないのか、それともちゃんと分かって言っているのか、プリムラには皆目見当もつかなかった。





(それは分かって言ってるの、という声はぬるい風に攫われて消えた)

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