A



むり、しんどい、やだ、もうやだ、帰りたい、ていうか帰る


口から溢れる弱音の数々は、ごまかしようのない自分の本音。くるしいせつないさみしいあいたい。海の向こうにいる幼馴染みと繋がれる唯一の連絡手段を握りしめ、スピーカーに向かって鼻声混じりに捲し立てた。


《おっまえなァ…まだ半年しかたってないだろうが》

パティシエの修行するっつって飛び出してったのはどこのどいつ?ためいきまじりに幼馴染みは的確に痛いところをついてくる。


紫原は大学在学中に製菓業界で著名なフランスのパティシエに接する機会があった。東京で開催されたお菓子博覧会でのことだった。後に紫原の師匠となる彼が日本大好きという趣向の持ち主であったための偶然。
彼の舌をもうならせた紫原の菓子作りの腕はプロ曰く「磨けば更に光る。右に出るものすらいなくなるほどに」だそうだ。大学を卒業したら自分の下で修行してみないか、持ちかけられた話に先に食いついたのは紫原でなく、@@。


「パティシエなりたいんだろ?いけば?」

少しは渋ってくれるのかと思えばこの反応。
それにカチンときて反発がわりに行ってやる、と返事をしてしまった。
離れれば少しは身に染みるかも。ひとりぼっちになって毎日泣く羽目になればいいんだ@@なんて。
そう思っていた時期が紫原にもありました。


「もうやだ…半年も会えてないとか俺死んじゃう…」


毎日泣く羽目になったのは紫原のほうだった。

幼馴染みは呆れた声でただしっかりしろ、としか言わない。


「……@@はさみしくないの」
《あーさみしいさみしい、…ふあああ》
「なにそのテキトーな感じ」
《毎回言ってっけどさぁ…時差考えろよバカ敦。こっち夜中だよ…》
「だって@@の声聞きたかったんだもん…」


垂れてきそうになる鼻水を啜りながら言っても@@はうん…うん…と今にも寝落ちそうな声で返答するだけ。
俺も会いたいよとでも一言言ってくれれば文字どおり飛んで帰るのに。


「ばかちん!!@@のばかちん!」
《敦うるさい…》
「俺死んじゃっても知らないから」
《死なねえよ…》


気の無い返事をする@@をもう一度ばか!!!と罵って紫原は一方的に通話を切った。通話時間9:42。切ったあとに後悔した。もうちょっと長く話せばよかった、と。こんな切り方をした手前、掛けなおすのも癪。


「@@のばかちんっ」


憤りながら、 紫原は別の番号にダイヤルした。



人に奢ってもらった食事とはなんだか普通よりおいしく感じるはずなのだが、目の前のトレーに乗せられた山盛りのハンバーガーは食べても食べても砂のような味しかしないし、飲み下せば鉛のように重い。


「今日は進むのが遅いな。俺に遠慮せずに食べていいんだぞ?」
「遠慮したい相手が前にいるからかな…」
「何で遠慮したいんだ?」
「氷室の笑顔が…怖いから…」


100円のやっすいコーヒーのはずなのに、氷室が飲んでいるととてもお高そうに見えるのは何故だろうか。コーヒーのカップを置いて、氷室は顔だけはにっこり、しかし声は最上級に低くして@@に言う。



「俺が@@を呼び出した理由、わかる?」
「わかりません…」
「心当たりは?」
「ありません…」
「今すぐ掘ってあげようか」
「何で!!!!」


久々にものすごい悪寒を感じた。高校を卒業して、紫原と付き合いだして社会人になってからあまり感じなくなった危機感が今ここで、真っ昼間のマジバで甦る。


「最近連日、アツシから電話がかかってくる」
「はあ、そうなの…」
「嫉妬した?」
「いや氷室相手だし」
「jesus…これはアツシも怒るわけだよ」


長い長い溜め息をつきながら氷室は肩をすくめた。

「"離れてるのにちっとも寂しがってくれない"、"@@のばか"って毎日愚痴を聞かされてるよ」
「えーと…ご、ごめん…」
「@@、俺がどんな思いで@@を諦めたかわかる?」
「いや…」
「アツシは可愛い後輩だ。何より俺は@@の幸せを願った。だから諦めたのに…!」

突拍子もなく氷室がテーブルを殴った。ハンバーガーの山が崩れる。
ぷるぷる肩を震わせる氷室を見て嫌な予感が止まらない。


「略奪愛上等じゃないか…!!今すぐ奪ってやろうか!」
「あ、敦をか!?」
「@@をだよ!!!」
「普通逆!!」
「俺に普通を求めないでくれ!oh god…!How sad…!!!」


おいクールになれよ!と言ったところで氷室は聞き取れない英語でしか返答をくれない。回りの視線が痛いので少し落ち着いてほしいところだ。


「最後にアツシと連絡取ったのはいつ」
「い、一週間くらい前…それから練習忙しかったし…」
「ああ、そろそろ試合か…」


@@は今プロサッカーチームで選手として活躍している。
もうじき始まる公式試合で大事な局面を迎えるため他のことに構っている暇がないとはいえ、一週間ってお前…と氷室で濁った目で睨んだ。


「じゃあアツシが今どんなことになってるかも知らないな」
「…?なんかあったのか?」


氷室は再び溜め息をついた。


「病気らしい」
「……は?」


頭のてっぺんから冷水をぶっかけられたように@@の体温が下降した。病気?あの紫原が?目を泳がせ狼狽する@@を見て氷室は続ける。


「命に関わるようなものじゃないよ」
「な、なんだよ…」
「ただアツシのもうひとつの命の方には関わってくるな」

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