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兵団の食堂内はいつも通り終業後の兵士でごった返していた。リヴァイ班の班員も例外ではなく、エレンを含め五人でテーブルを囲み食事を取っていたが、その中に副班長であるリーナの姿は無い。飛び交う話題が業務に関するものから私生活上のものに遷移する頃、空の食器を乗せたトレーを持ったリヴァイがその横を通りかかる。


「オイ、リーナを見た奴はいるか」

「兵長!お疲れ様です!
リーナは終業後、自分は食事は後で取るからと先に行く様私たちに言っていました」

「そうか・・・邪魔したな」



食事の手を止め立ち上がり敬礼したペトラの目は真っ直ぐで、その情報は本当らしい。しかしリヴァイが執務室や会議室、リーナの私室を訪れても、どこにもその姿は無かったのだ。もしやと思い訓練場も覗いてはみたが、時間外の自主的な訓練を申告する名簿にもその名は無い。
リヴァイがサインを済ませ、後はエルヴィンへ提出するのみとなった書類を現在リーナが纏めて所有しており、終業直前にその内のいくつかを今一度確認したく思い、声を掛けようと彼女を探していたのだがどこにも見当たらず、ペトラの言葉以外未だ手掛かりも掴めずにいた。外へ出掛けた可能性もあり、そもそもが火急の用事というわけではないので、いないのなら明日改めて声を掛ければ良い。
私室に戻るべくリヴァイが執務室の扉を開けたところで、大きな影が目の前を過ぎった。アイスブルーの瞳とかち合い、おもむろに足を止めた相手に合わせてドアノブに手をかけたままリヴァイも一歩歩み寄る。


「エルヴィンか・・・お前、リーナを見たか?」

「ああ、リーナなら外出中だ」

「夜の街にか?珍しい事もあるもんだな」

「いや・・・彼女の行き先は王都だ」

「あ?」


リヴァイがかつかつと踵を鳴らし一貫して落ち着き払った様子のエルヴィンに詰め寄ると、その襟元を掴み眼光鋭く睨み上げた。それでも青空を写したような瞳は変わらず真っ直ぐにリヴァイを見つめ返し、進んで口を開こうとはしない。


「念の為聞くが・・・何しに行ってる」

「バルト公爵邸で晩餐だ。招待を受けていた」



エルヴィンの上半身が屈む様に僅かに傾く。ジャケットを掴む手に力を入れたリヴァイは、リーナが単独で出向いているのかと問い質し、その返事を聞くなり食い気味に大きな舌打ちを響かせた。こうも早く個人的な誘いがかかるとは予想外であったリヴァイがその理由を思案していると、それを読んだ様にエルヴィンが口を開く。


「リヴァイ、お前が前回必要以上に牽制したんだろう。公爵はお前が障害になると判断して先手を打ったんだと、私は踏んでいるが」

「知らねえな・・・奴はとんだ勘違い野郎のようだ」


いずれにせよ、いつかはやって来る機会が今だっただけの事、とエルヴィンが静かに語った。それをどう扱うかは彼女次第で、公爵を選んだとして誰がリーナを責められるだろう。自分の幸せを選んで退団したとしても、彼女の人生は彼女のものなのだから。
独白の様に言葉を紡ぎながら目の前の男がらしくもなく眉間に皺を寄せ苦悶の表情を見せるので、リヴァイは思わず口を噤んだ。負の感情の類を滅多に表に出さないエルヴィンが、それを隠さないーーーと言うよりも隠し切れないといった様子なのだ。その瞳の向こう側で揺れる迷いの様なものが垣間見える気がし、ともすればそれに自らも心当たりがある様な気がして、リヴァイはおもむろに手を離す。兵士としての評価だけでなく彼女の幸せも願っているのだと零し、踵を返して去って行く真っ直ぐに伸びた背中はどこか覇気が無い。
エルヴィンが角を曲がり見えなくなるまで廊下に立ち尽くしていたリヴァイは、至極静かな足取りで執務室へと戻ると、椅子を引き机上の書類を仕分けつつ再びペンを取った。文字を目で追いペンを走らせては、また手を止め内容を読み込んでいくのだが、目線が文字の上を滑って内容の理解に時間を要してしまう。
リーナは何故自分に黙って招待に応じたのか。人に頼るのが苦手な彼女の事だから、 言い分は大体の予想が付いたが、もしかすると本当に公爵に対して何か思う所があるのかもしれない。そして気になるのはエルヴィンの言葉。こちらに言い聞かせているように聞こえたが、もしかするとーーーー。
何やらざわついて落ち着かない胸中を自覚しつつも、時折瞼を伏せ手を止めながら休み休み作業を進めて行く。窓の外で夜は刻々と更けていき、執務室の灯りは暫くの間消されることはなかった。









馬車が減速し緩やかに停車すると、御者が外から回り込み扉を開けた。重い足取りで兵団の裏門へと降り立ったリーナは裾を両手でたくし上げ、兵舎には寄らずに直接宿舎の入り口を目指す。気力も体力も疲労が限界を迎えており、帰って来られたという実感が湧けば自然と長く細い溜息が口をついて出た。慣れない靴で砂を踏みしめ、時折足を縺れさせながらも宿舎の玄関口へと辿り着くと、両開きの扉を音を立てぬようゆっくりと引く。時間帯を考慮し努めて慎重に行動したつもりでも、老朽化が進むそのドアは甲高い声を上げた。入り口すぐには簡易的なロビーがあり、普段はそこの年代物のソファーに代わる代わる兵士が腰掛け談笑していたり読書していたり、自主練習の合間に休息を取っていたりなどするのだが、この時間では流石に人の気配は無い。耳鳴りがしそうなほどに静まり返る宿舎に控えめなヒールの音だけを響かせ踏み出すと、視界の端で誰も居ないはずの空間に人影が映る。リーナが勢い良く振り返るのと時を同じくして、その背後で自重により扉がひとりでに音を立てて閉まった。
暗闇の中に窓から差し込む月光を浴びて薄ぼんやり浮かぶ青白い人影。ソファーに深く腰掛けて足を組み書類の束を手に微動だにしなかったそれはやおら立ち上がると、乱雑に紙の束を座面へと放り、一歩一歩踏みしめる様にしてリーナとの距離を詰めた。


「一丁前に午前様か」

「りっ、へ、兵長・・・いらっしゃったんですね」


言葉や文字にして報告する事は憚られる様な出来事はあったが、今回の任務自体、リヴァイに対して疾しいと感じる必要はない。無事資金協力も取り付けてきた。しかし、距離が縮まる事で暗がりでも切れ長の目が鋭く睨みを効かすのがはっきりと見て取れ、それを受け流せる程、あれはリーナの中で明るい出来事だった訳でも無い。


「随分と偉くなったようだなリーナよ。上官に報告も無しとは」

「申し訳、ありません・・・
任務は就業時間外でしたし、エルヴィン団長が申請等手配して下さいまして、個人的な任務と判断して動いておりました」


間髪を入れず舌打ちが響き、いつにも増して不機嫌なその様子に気圧されたリーナが僅かに俯いた。その顔を何の気無しに目で追っていたリヴァイは突然弾かれた様に右手で彼女の丸みを帯びた細い顎を無遠慮に掴む。眉根を寄せ見開いた瞳は戸惑いを訴えるリーナの視線を無視して、その中途半端に開いたまま固まるふっくらとした唇へと釘付けになった。


「紅が落ち切っている」

「っ!」

「だが、他は特に落とした様子はねえ」


口を開いては閉じるを繰り返し言い淀む様子に確信を得たリヴァイがすっと両の目を眇めると、リーナは慌てて顔を逸らしその手から逃れて深く俯いた。今はその目を直視することが出来ない。


「血色が良い。多少腫れているようにも見える」

「た、多少、そういったことがありましたが・・・それ以外は何も」


その声が震えた事に、リーナ自身気が付いていなかった。そして自分を抱き締める様に肩口を力一杯握り、その視線は右下の方向へと流れる。手を握り込むのも、逸らした目線がそちらを向くのも、リーナが嘘を吐く時に見せる分かり易過ぎる癖であり、リヴァイがそれを目の当たりにして見逃す筈も無い。本当に分かり易いそれが今この時ばかりは神経を逆撫でする様に苛立ちを加速させ、リヴァイは両手でリーナの手の上から肩を掴むと、そのまま撫でる様にしてイブニングドレスにしてはやや詰まった襟口を体の線に沿って引き下ろした。


「ひっ!り、リヴァイさん!?」

「これで何も無いだと?
てめえの中でこれくらいの事はどうってことねえと?」


コルセットの胸元が露出するかしないかの境でリヴァイが手を止めると、立体機動装置の使用がもたらす身体的弊害の一つに数えられるベルト痕が顔を覗かせた。訓練兵時代から兵士が修練と共に繰り返し痣を積み重ねたもので、装置の使用を数年も続けていれば消えない痕として全身に刻まれる。リーナも勿論例外ではなかった。
しかしその痕ーーー外気にさらされた胸元の横一文字と肩に背負う形で残る痕の周りに、真新しい鬱血痕が複数散っている。白い肌の上で桜色に色付き目を引くそれが何であるかは想像に容易い。


「わざわざ隠してるもんを嗅ぎつけるとはな・・・良い趣味してやがる」


兵士のある種勲章としてのその痕に、いとも簡単にマーキングしてくれたものだ。自分ですらこうして初めてリーナの持つ痕を目の当たりにして、触れる事に躊躇するくらいだというのに。
腕を掴む手の親指がその痕を拭う様に撫でた。そうしても取り去ることは出来ないと分かってはいても、そうせずにはいられなかったのだ。腕を掴まれている力が若干弱まったのを感じ取ったリーナが隙を見て一歩後退り、リヴァイとの間に距離を取る。ずり下がったドレスを整えると心許なさそうに両手を体の前で組み、おずおずと見上げる様にしてリヴァイの切れそうな鋭さを孕む瞳と視線を交わす。


「本当に、これ以上は何も・・・」

「奴と一緒になりてえってんなら別だがな、そうじゃねえなら・・・これ以上てめえ自身を安売りするんじゃねえ」


しかし見返りとして自分自身を差し出さねば支援は得られないのではないか。そうリーナが不安げに口にするも、途中で遮る様にして以前にも聞いた適役が他にもいるという話題をちらつかされる。
それに我々側だけでなく、機嫌を取れば転がしやすい貴族も他にも大勢おり、バルト公爵から名指しで呼ばれるからといってリーナが無理をして精神を病んでしまっては、兵団としても痛手である。兵団のことを考え集団の利益になる様尽くすのは殊勝なことだが、資金調達に他のやり方が無い訳ではなく、代替案があるのなら、心にも無い事を自らに強いる必要はない。
そう顰めた顔で饒舌に語るリヴァイに圧倒されながら、リーナも恐る恐る自らの心情を吐露する。


「私に出来る事があるのなら、何だってしたいんです・・・兵団の役に立てるなら」

「見上げた心掛けだが、実際お前がここまでやる必要はねえ」


叩きつける様にして吐かれた否定の言葉にリーナは僅かに目を見開く。眉間の皺を深くしてこれ以上無いという位に不機嫌を前面に押し出している上官と見つめ合っていたが、今この時それに怯む気持ちは薄れていた。暫しの沈黙の後、それなら自分には何が出来るか、どうしたらもっと力をつけられるのか、とか細い声で零す。


「そりゃあ、今回の特別作戦を遂行するために、次の調査まで更に腕を磨いてーーー」

「それだけじゃあだめなんです!」

「ああ?」


例え凄まれても、譲れない物がリーナにはあった。
この席を任された時から、未熟な自分が一刻も早く兵団の役に立つために、兵士長補佐という大役が見合う程の自分になるために、今出来ることを模索していた。今回任されたのが例え資金調達の任務でなくとも、内容は何だって良かったのだ。


「私に出来ることなんて、たかが知れている・・・それでも今の私がどんな形であれお役に立てるのなら、それに応えたいんです」

「自己犠牲が必ずしも美徳だとは限らねえよ」


リーナのその危ういほどに必死な姿勢は、彼女の不安な心を写していた。何か自分の居場所に見合う相応の成果を挙げなければ。そんなある種強迫観念にも似た不安が彼女を駆り立て、突き動かしていた。リヴァイはそんな彼女の心に目敏く気付いていて、更に言えば、生真面目な性格の人間がこういった任務に当たれば資金だけ頂戴して上手く逃げることに意識せずとも罪悪感を抱き、多少の無理は承知で相手の要求を飲もうと行動するだろうと分析していた。まさにその懸念が未遂とはいえ現実のものとなった事に、そしてそれを未然に防げなかった自分にも腹を立てている。個人的な話が上がってくる前に、先回りしてエルヴィンに釘を刺しておくべきであったと。


「ああいう内地の奴らの中には変態が多いと聞く。これ以上痛い目見たくなきゃ、下手な気を起こさんことだな。
まあ・・・万が一にもお前がそれを望んでるってんなら、俺の忠告はただの小言だろうが」

「それはあり得ません!
・・・仰る通り、そういった方のお相手には向いていないと、自分でも分かってはいますが・・・」

「ちっ。ならば目の前に迫っている調査に集中しろ。特別作戦班として機能するからには普段通りとはいかねえと、本当に分かっているんだろうな?」

「はい・・・重々、承知しております」


面白くないとでも言う風に鼻を鳴らし、明日に疲れを残せば許さないと釘を刺したリヴァイは、早く寝るよう言い付けるとすぐに踵を返す。
宿舎を出て行く背中をいつもの様に敬礼し静かに見送るリーナのその装いは、団服ではなく華やかなドレス姿。年季の入った宿舎で浮いて見えるそれは、自分の心と同様に何もかもちぐはぐで、ひどく滑稽なものの様に思えた。









190824


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