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最後の一品である甘味を慣れない手つきで慎重に口に運びながら、リーナは心の中で何度目かの溜息をついた。前菜から常に緊張したまま手を動かし、ゆっくりと食事をするその合間に語りかけられる言葉に相槌を返すので精一杯であった。
最後の一口を味わい、食後酒として用意されていた酒を堪能していると、離れた向かい側で同じくグラスを傾け余韻に浸る男に品の良い微笑みで穏やかに見つめられる。


「お楽しみいただけましたか?」

「もちろんです!食べたことのないお料理ばかりで、慣れない点も多く見苦しかったかとは存じますが、大変美味しく頂きました」

「貴女はいつだって素敵ですよ」


向けられた人当たりの良い笑顔はどこか壁を感じさせる様な、貼り付けたものに見えてしまう。自分が緊張しているからその様に映るのだと言い聞かせてその後も振られる話題に対応していると、不意にエレンの名前が挙がる。巨人になることができるとか。そう興味を示した彼にリーナが当たり障りない返事を返せば、その薄い唇を引き薄い笑みを漂わせつつ立ち上がり、おもむろにリーナの元へとやってくる。


「食後の口直しは庭を眺めながらにしましょう。眺望の良い自慢の部屋があります」


そう提案したバルト公爵は壊れ物に触れる様にそっとリーナの手を取ると、完璧なエスコートでホールを後にし赤い絨毯の敷かれた廊下を進む。薄暗い中でも輝きを湛える豪奢な内装に目が眩みそうになりながらも、手を取られ腰を支えられたリーナの歩みが止まる事はない。
そしてある部屋の前で立ち止まり、先に扉を開け中へ入る様促す彼に従ってリーナが部屋へと足を踏み入れると、そこは非日常的な空間であった。

正面は床から天井、端から端まで一面ガラス張りの大きな窓になっており、薄いレースのカーテンは端に揃えられて、月夜に寂しげに映える庭園を一望できる。そして窓際には趣のある装飾を施した猫脚のカウチが置かれていた。灯りの少ないこの部屋にも月光が差し込み、それはさながら絹布が舞っている様である。

圧巻の光景に呆然とするリーナの手を引きカウチへと腰掛けさせたバルト公爵は傍で紅茶を入れていた給仕係を下がらせると、自らもその隣へと腰掛け、カップを片手に取りもう一方の手はリーナの手の甲を撫でた。
どきりとリーナの心臓が嫌な音を立て、膝の上で握る拳にも力が入る。バルト公爵は庭の造形に関して語るが、彼の挙動に気が気ではない思いをしているリーナは上の空の状態であった。そんな彼女の様子に気付き口角を上げた公爵はいつかの様に調査兵団への協力を申し出る。その言葉に是非にと頬を緩め多少緊張も解れたのを読み取った公爵が、未だにその手の中で弄ぶ華奢な指を引いた。導かれるままに傾いた上体が彼の肩にしな垂れ掛かり、腰に回された手が離れる事を許さない。
見上げる形で彼の表情を伺ったリーナは、上から覗き込む動揺を見透かさんとする様なヘーゼルの瞳に視線だけで雁字搦めにされる錯覚に陥った。撫でられていた手はそのまま腕を登っていく。


「また・・・危険な壁の外へと行かれるのですね」

「そう、ですね」

「貴女のために調査兵団を支持すればする程、貴女は危険に晒されてしまう」


搦めとる様な視線が不意に逸れ、細めた目が窓の外へと向いた。
活動理念に賛同してもらい協力を仰ぐ兵団の普段の活動とは本質が違うのだとリーナは改めて実感する。リヴァイがかつて言った様に、対価は自分自身。どんな成果が上がるかは二の次で、こういった時間や見返りが期待されているのだ。


「いつも、貴女が来てくれそうな機会を伺っていてね・・・今日は絶対に来ると思っていた」

「調査日程を、ご存知だったんですね」

「商会には少しばかり顔が利くものでね」


目を眇めて見せる公爵の姿はどこか今までとは違っており、その言葉も取り繕うことの無い本音なのだろうとリーナは直感的に感じ取った。先程までとは打って変わり強引さを感じる手つきでぐいと腕を引かれ顔が近付くと、鼻先が触れ合う程の距離で彼はほくそ笑み、ヘーゼルの力強い眼差しを瞼の奥に隠してリーナの綺麗に紅の乗った唇に口付けた。
それはほんの数秒間であったが、瞬く間に起こる出来事と唇に感じる柔らかな熱にリーナは硬直し、目を閉じる事なく時が止まった様に思考までも停止していた。その視界で少し顔を離した公爵が控え目に、しかし確かに恍惚の表情を見せたので、リーナは今し方自分は唇を奪われたのだと理解する。すぐ目先で依然妖しく目を光らせ見つめる造形の整った顔が再び距離を詰めると、動揺し目を白黒させるリーナの唇を自らのそれで掬い上げる様に角度をつけて塞ぎ、彼女の言葉にならない言葉すらも飲み込んだ。体の中から何かを奪わんとする様な深いキスに太刀打ち出来ずただ呆然とされるがままであったリーナの停止していた思考が、息をうまく継げない息苦しさによってぼんやりと徐々に働き始める。
見返りを求められ、それが自分に応えられる事ならば応えればいいし、応えられないのならそれなりの技量を以て上手く躱すしかない。しかしそれに関して言えば全く自信は無い。その様な駆け引き云々には疎いが故に、どうしようもない状況に置かれればこの身を差し出すことも辞さない構えだ。だがそれでも、心は決して渡さないと決めている。貴族の家に囲われる事も、調査兵団を去る事にも、決して応じない。あくまでこれは任務であって、自分の本分は兵士なのだから。



「ふふ・・・夜会で話をすることが出来て真面目な人だと分かったから、また支援する機会があれば、罪悪感に駆られた貴女はすんなりと僕に抱かれてくれるんじゃないかと考えていたんだが・・・
どうもそう一筋縄ではいかないらしい」


顔を離し上唇を小さく舐めた公爵はリーナの真っ直ぐに見つめ返すその瞳に宿った意思を目の当たりにして、素直に紳士の仮面に隠していた思惑を吐露する。半ば強引に唇を奪われその上何をされるか分からない状況だというのに、それでも健気に自分の信念を貫いてみせる強い瞳と、隠し切れない動揺が現れる小さな手。そのギャップに面食らい小さく笑うと、リーナの紅潮した頬を掌で柔らかく撫でた。そして先程彼女を掻き抱いて意図せず肩口から胸元にかけて肌蹴させてしまったそこに、線状の痣の様な見たことのない跡を認める。触れるか触れないか程度になぞればびくりと体が跳ねた。


「これは?」

「べ、ベルトの跡、です。立体機動装置の」


公爵の脳裏に、在りし日にリーナを見初めた際の彼女の武装が浮かぶ。ジャケットで全貌は見えなかった様に記憶しているが、胸元を一本ベルトが横に渡っていて、体側から下半身まで回るベルトがあった。この跡を見るに肩に背負う形で背中にもベルトを回すのだろうと推測できる。
身体中に走っているであろう跡を全て暴いてみたいという衝動を公爵は即座に抑えつけ気持ちを鎮めると、襟元を戻しても尚恥じらいからかドレスの上からも隠す様に手を当て押さえていたリーナの左手を掴み、同時に布地を引き下ろして肌蹴させ再び現れるその跡へ唇を寄せた。


「こ、公爵さま、っ」


小さなリップ音を立て赤い花が散らばって複数咲いたのを満足気に眺め指先で確かめる様に撫でると、彼は何処からか取り上げた小さなベルを鳴らし外で待機する従者を呼び出す。馬車を支度する様言いつけると再びリーナに向き合い、小さく息を吐くと乱した襟元を整えた。


「力づくで貴女を僕の物にするのは簡単だ。色々なものを振り翳せば容易に私の手の中に落ちてくる。
貴女の心を全て無視して、ね」

「・・・仰る通りだと思います」


しかしそれならば羽ばたかせてやりたいと思ったのだと、髪を梳き頬を撫でる公爵は語る。その瞳からはぎらぎらとした光は消え、今は月明かりを柔らかく取り込む穏やかな輝きがリーナを見つめていた。


「無理に翼を手折れば、それはきっと貴女ではなくなってしまうのでしょう」


そう呟くとリーナの右手を掬い上げ立ち上がれる様エスコートし、青白い光で仄かに包まれていた部屋を後にする。長い長い廊下を進み階段をいくつか降りると外へと繋がる大きな扉が現れ、屋敷を背にしたところでリーナは連れ込まれた部屋が屋敷の奥まった場所にあったのだと、改めて貞操の危機に気付き背筋を震わせた。
屋敷の目の前に横付けされた公爵家の煌びやかな馬車へと乗せられると、御者によって静かに扉が閉められる。兵団の自室のベッドよりも遥かに沈みの良い赤いベロア生地の椅子に手をつき窓を開けたリーナが、未だに微笑みを湛えたまま見送りに出ている公爵へと晩餐の礼を伝えると、彼は片手で顔を覆って俯き喉を鳴らして、可笑しくて仕方がないという風に笑みを漏らした。


「貴女という人はーーーー」

「あ、あの・・・?」

「いや・・・礼を言われるとは予想外でね」


公爵はそう楽しそうに漏らしながら一頻り笑った後、小さな窓枠から覗くリーナの顔へと近付き短く囁く。音が聞こえそうな程に勢い良く顔を離したリーナが焦った様子で否定の言葉を並べるのを横目に見ながら、彼は御者に出発するよう指示を出した。
門を出るまで馬車を見つめる公爵の顔と豪華絢爛な屋敷が遠ざかり、車窓の風景は夜も更けたウォール・シーナ内地へと移る。緊張が解け、ドレスを気にしつつ控え目に背凭れへと体を預けたリーナは、先ほどの公爵の言葉を思い返しては自らの結婚観に思いを馳せる。
"いつか貴女をこの鳥籠に囲いたいものだ"。そう囁かれ、あの屋敷に嫁げるとなれば嬉々として受け入れる女性も多いだろう。しかし、確立された地位、何一つ不自由しない贅沢な生活ーーーそれらに魅力を感じない自分には、あの巨大な宝石箱の様な鳥籠に囚われる事は耐え難い。決して結婚したくないわけではないのだが、自分の事で一杯一杯な今はそれどころでは無いので、考えた事もなかった。強いて言うならば、大切な人が出来たなら、いつまでも互いを尊重し合える間柄でありたい。相手の強さも弱さも認め、互いを尊敬し合い、尚且つ依存し過ぎることのない適度に自分の足で立つことの出来る関係が望ましいとは、漠然と考えている。
今は亡き父が、生前は母からの愛に依存していた事を当時リーナは幼いながらに肌で感じており、彼女の理想像にはそれが無意識のところで色濃く反映されているのだが、本人にその自覚は皆無であった。
一定の間隔で設置され、眠りに落ちた街の街道を明るく照らす街灯も、ウォール・シーナの城壁都市を抜けウォール・マリア内へと至れば数が減り、ぽつりぽつりと淡く灯るのみで、街と言えど人の往来は殆ど無い。傾いた月が煌々と輝く夜空は、もう数時間もすれば白み始めるだろう。
リーナは襟元を押さえていた手を握り込むと、弱々しく長い溜息を吐きつつ、見慣れた街並みが今は静かに寝静まっている様子をぼんやりと車窓から眺めるのだった。











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